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21
トントン、トントン。
誰かが扉を叩いている。
大丈夫――これは、いつもの恐ろしい夢じゃない。
何故かそれを知っている香佑は、それでも、怖々と扉を開ける。
「よう」
髭面の熊みたいな男が、にこっと笑って香佑を優しく見下ろしていた。
「元気だった? 俺も今日、こっちに引っ越してきたんだ」
吉野――
「ずっと言えなくてごめんな。本当は俺も、お前のことが好きだった」
本当? ――本当に?
「おい!」
乱暴な声に、幸福な夢に酔っていた香佑は、はっとして顔をあげた。
目の前には、夢だか現実だかにわかに判断しがたい光景が広がっている。
そこに立っているのは夢に出てきた男だが、風景は――観音像が背景だ。
「そんなとこで寝るなよ。別に、無理にいてくれなくてもいいから」
タオルで首のあたりを拭いながら、振り返った匠己の声は、少しだけ苛立っていた。
午前零時前。これが最後の追い込みなのか、匠己の目は充血していて、立ちっぱなしの全身に、濃い疲労が滲んで見える。
「ご、ごめん。ちょっとうとうとしただけだから」
「鼾、聞こえたぞ」
「う、うそっ。鼾なんてかかないし」
それでも出ていけと言われるかと思ったが、匠己は何も言わずに作業に戻り、香佑は、ベンチの上で毛布を被って膝を抱いた。
1人で家にいるのが怖いから――とか、適当なことを言って、食事を持ってきたついでにこの仕事場に居座ってしまったが、本当は、匠己の仕事をしている姿が見たかった。
最後まで――この仏像が、最後にどういう形で完成するのか、それを見届けたかったのだ。
何故だかそれを見ることで、自分の知らない匠己の過去に、彼の世界に、少しだけ近づけると思ったのかもしれない。
なんのために近づくのかと聞かれれば、自分でもよく判らないのだけれど。
――まだ……気に入らないのかな。
厳かに佇む観音像は、傍目にはほぼ完璧なレベルで完成しているように見える。
が、何が気に入らないのか、匠己の腕は一向に止まらない。様々な角度から観音像を眺め、撫で、唇で何かを呟き、ピシャンと呼ばれる金槌状の器具を、石に当て続けている。
それからどれくらい経ったのか――ふと気づくと、匠己の腕が下に降り、それきり、上がらなくなっていた。
彼は、まるで魂を持って行かれた人のように、憑かれた目で、そびえる観音菩薩を見上げている。
「……完成?」
香佑は、そろそろとベンチから降りて、匠己の背後に歩み寄った。
「うん」
短く答え、匠己は小さく頷いた。
「納得、できた?」
「納得?」
「なにか……気に入らないところが、あったんじゃないの?」
「そういうんじゃないんだ」
説明を躊躇うように、匠己はわずかに苦笑して言葉を切った。
「出来たって思うんじゃなくて、出来たのが判るんだ。その瞬間、自分のものだった石が、自分から離れていくのが判る」
「…………」
「へんだろ。でも昔から俺にはそれが普通でさ。何作ってもそうだった。慎さんに言わせれば、単なる思い込みに過ぎないらしいけど」
香佑は黙って、匠己の言葉の意味を、ゆっくりと噛みしめていた。
もちろん、彼の言う感覚は香佑にはまるで判らないし、この先経験することもないだろう。でもそれが――匠己の持つ、彼にしか判らない世界なのだ。
ふうっと太い息を吐いて、匠己はベンチに腰を下ろした。
香佑は、少し躊躇ってから、その隣に座った。
「コーヒー、飲む?」
「うん、もらうよ」
時刻は、あと少しで午前二時になる。香佑はポットのコーヒーをマグカップに注ぎ、匠己の手に手渡した。
「お風呂、どうする?」
「あー、いい。ひと眠りして、朝シャワーにしとくから」
「朝ご飯は……」
「いいよ。眠いだろ。1人で適当に食うから」
それきり会話が途切れても、何故だか香佑は、ひどく匠己に絡みたい気分だった。絡みたい――というか、構いたい。
「肩、揉もうか」
ぼんやりしていた匠己の横顔が、ぶっと驚いたように吹き出した。
「は――はい?」
なによ。そこまで露骨に驚くこと?
「いや、凝ってそうだし、私、揉むの上手いから」
「いいよ。いらね」
「えー、なんで」
香佑はむっと眉を寄せる。匠己は、困惑気味に視線を逸らした。
「てか、さっきからおかしくね?」
「ど、どういう意味よ」
「風呂とか飯とか、いちいち俺に気ぃ遣わなくていいから。本当に結婚してるわけでもないのに」
それは――まぁ、確かにそうなんだけど。
香佑は、ちょっと赤くなっていた。
何かをしてあげたい……と言ったら、この人は怒るだろうか。
なにか、彼を――誉めてあげたいと言えば上目線すぎるが、この瞬間を迎えた匠己を、どういう形であれ、ねぎらってあげたいなんて。
「だって、いいじゃん」
開き直って、香佑は言った。
「私暇で、あんた忙しいんだもん。だいたい自分だって、昨日、私の腰揉んでくれたくせに」
「それ、仕返しみたいに言うことか?」
匠己は少し鼻白んでいたようだが、やがて首をかしげながら、渋々言った。
「……まぁ、んじゃ……、やってもらってもいいけど」
「でしょ? 最初から、素直にそう言えばいいのよ」
「……? なんだか嬉しいような、腑に落ちないような」
首をひねる匠己の背後に立ち、香佑は肘を彼の肩にあてた。
「いてっ、それ、揉むのとは違うんじゃね?」
「マッサージ。肩のやつは、私も結構、本格的なの知ってるから」
「ふぅん」
それから匠己は何も言わなくなり、香佑も、弾かれそうに硬い肉体相手に、結構な労力を振り絞り続けた。
それにしても、硬い。硬すぎて手ごたえがあるのかないのか判らないくらいだ。なんだか、自分の力全部が、匠己の身体に吸い取られていくようで――
数分後、香佑は息を切らしていた。
「……ど、どうよ」
「鼻息がうるせぇ」
「ばっ、――ほんっと、あんたって失礼な奴」
香佑は匠己の頭を思いっきりはたいて、ぜいぜい息をしながら、ベンチに反対向きに座った。
「つ、疲れた……」
「体力ねぇんじゃないの? なんだか肩も、あまり前と変わってないし」
その言い方があまりに素っ気なかったので、香佑は少し、かちんときている。
なによ――。
しかも、こっちを見ようともしないってどういうこと?
一生懸命やってあげたのに、もうちょっと喜んでくれたっていいじゃない。せめて目くらい、あわせてくれたって。
とはいえ、そんな彼の無神経さは、今に始まったことではない。
香佑は、気持ちを切り替えて、完成したばかりの観音像に視線を向けた。
――すごいなぁ……。
お父さん、形ばかりとはいえ、私のだんなさんになった人は、どうやらすごい職人さんだったみたいだよ。
まぁ、誉めていいのはどうやら仕事の腕だけで、人間としてはクエスチョンがいくつもつくようなダメ男だけど。
「ねぇ、こんな大きなもの、どうやって京都まで運ぶの?」
「そこはもう、専門業者に。トラックが明日、引き取りにくるから」
「明日、じゃあ、よ――」
吉野も一緒に、京都に行くの?
と、訊くつもりだったが、やはり吉野というところで、詰まっていた。
「なに? 明日、じゃあ、よ?」
訝しく思ったのか、匠己が眉をひそめて香佑を見る。
「ああ……その、よ、ではなく、た……」
匠己さん。
――やっぱり無理。呼べるか、いきなり!
「は? よではなく、た?」
匠己は、ますます不審げに眉を寄せる。「大丈夫か? お前」
「いや、あのね、慎さんが私に、その……つまり」
香佑は、しどろもどろで言い訳した。
あんたのことを匠己さんか匠己様と呼ぶように、そりゃあもう、鬼軍曹みたいな剣幕で。
「……慎さん?」
「そ、そう、慎さん」
「…………」
そんな香佑を、疲れているとでも思ったのか、匠己は溜息をつきながら立ち上がった。
「お前は、もういいから、家戻って早く寝ろよ。俺、こっちの片付けもあるし、明日の支度も残ってるから」
いや――それはそうなんだけど、そうじゃなくて。
「あの、さ」
「なに」
「あのね」
「……なんだよ」
さすがにしつこいと思ったのか、むっとした眼が振り返る。香佑は覚悟を決めて、――しかし、消え入りそうな声で言った。
「匠己、……さん」
口にした瞬間、条件反射みたいに頬が熱くなって、心臓が早鐘みたいになり始めた。
「っ、って、呼ばなきゃまずいよね。ほら、少なくとも人前では。二人の時は、もちろん今までどおりでいいと思うんだけど、私、普段から吉野って呼び捨てする癖がついてるから、ちょっと練習しとこうと思って。昼間に慎さんに言われて、私もその通りだと思ったんだけど、呼び慣れないと、難しいねー。なんか無駄に照れるみたいな? あははっ」
とんでもなく早口で言い訳する香佑を、匠己は、たっぷり一分は口を半開きにして見ていたかもしれない。
が、ようやく意味を察したのか、やがて彼は大きく息を吐いて肩を落とした。
「ああ、びっくりした。なんの厭味かと思ったら」
「な、なによ。それ」
「呼び方なんてどうでもいいよ。そんなの、誰も気にしてないのに」
いや――1人、とんでもなく怖い人が異常なくらい気にしてんのよ。
普段、社長の匠己を平気で呼び捨てにしている高木慎が、なんだってあんな剣幕で怒ったのか、いまひとつ判らないけれど。
「いいの。もう、そう呼ぶって決めたんだから」
てか、ここで止めたら、呼び損じゃない。とんでもなく恥かしい気持ちを振り絞ってせっかく名前で呼んでみたのに。
「ついでにあんたも、私のこと嶋木って呼ぶのやめなさいよね。嶋木って、もはや本名ですらないんだから」
匠己は唇を曲げ、顎に二本の指をあてた。
香佑は何故かドキっとしていた。その仕草は彼の癖で、同時に香佑は――、その時の彼の表情や指の形が、すごく好きだったのだ。
「……香佑?」
「………………」
今度は香佑が、たっぷり一分は黙ってしまう番だった。
え、なに?
名前呼ばれたくらいで、なんで私、心臓止まりそうになってるの。
香佑がうろたえながら顔を上げる前に、匠己は視線を下げていた。
「……匠己でいいよ。さんなんて気味が悪い」
「……う、うん」
なんなの、まるで中学の頃に戻ったみたいな、この胸のときめきは?
「じゃ、じゃ私、帰るね。今夜はここで寝るんでしょ」
「あ、ああ。んじゃな」
わたわたとカップやらポットやらを片付けながら、香佑は1人でパニクっていた。
おかしいぞ、まずいぞ、私。もしかして、遠くに投げ捨てたノスタルジーに、今、自分から飛び込んでいってない?
「……あのさ」
「え、……、な、なに?」
今も、話しかけられただけで、心臓跳ねあがってるし。
まずい、まずすぎる――この兆候。
「……覚えてる? 恋の神様」
――え……?
訊き間違いかと思った香佑は、しばらく目を閉じるのも忘れたまま、自分の手元を見つめていた。
なに、それ。
恋の神様。
まさかと思うけど、お守り袋の中の――神様のこと?
香佑は呆然と匠己を見上げ、匠己はすぐに視線を下げた。
「いや、忘れてんなら、いい」
「……あ、うん……」
いや、忘れてるとかじゃなくて、――なんで吉野が、そんなこと知ってるわけ?
「私、話した?」
歩き出した匠己の背に、香佑は思わず訊いていた。
「そんなことまで、昔、あんたに話したっけ」
「聞いたような気がしただけ」
「…………」
それは、確かに話したのかもしれない。
だって、私が後生大事にもっていた神様は、当時の私には――吉野と私を結びつけるためだけに存在していたはずなのだから。
でもそれを、なんで今、吉野が自分から口にするわけ?
「じゃ、早く戻ってさっさと寝ろよ。明日は結構ばたばただからな」
ふぁあと、眠そうな欠伸をすると、匠己はそのまま、家とは反対側の壁の向こうに消えてしまった。
香佑は、動けないままでいた。
恋の神様。
恋愛成就の赤いお守り。
ずっと持っていたはずなのに、いつの間にかなくなって、今となっては、どこで失くしたのかさえ定かではない。
なにか――何かを、私は忘れている。
すごく、すごく大切な思い出を――多分、私は忘れている。
でもそれは、なんだったんだろう。
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