20
 
 
「――あ」
 午後三時。
 からっからに乾いた洗濯物を取り込んで戻ってきた香佑は、台所の食卓に、匠己のために用意した昼御飯がそのままになっているのに気がついた。
 ――あいつ、食べにこなかったんだ。
 そりゃ、大したものは作れなかったけど、――てか、この炎天下の下、昼飯抜きで、本当に大丈夫なのかな。あの人。
 仕方なく、香佑は焼き飯と中華スープを温め直すと、トレーに乗せて外に出た。
 庭の外れにある彼の仕事場には行ったことがないが、場所だけは知っている。青いトタン屋根の、相当大きい土壁の建物がそれだ。
 でも、この建物……。なにか、変だぞ。
 近くまでいくと、それは建物ではなく、単なるコの字型の壁だと気がついた。
 いってみればコの字の壁の上に、雨よけのトタンが被せてあるだけだ。
 壁の向こうから、カツン、カツン、と石を叩く音が小刻みに聞こえてくるから、その向こうに吉野がいることだけは――窺い知れた。
「……吉野、さん?」
 足を止め、香佑は怖々と呼びかけてみた。
 一昨日だったか、仕事中の匠己の機嫌があまりにも悪かったので、なんとなく――この場に足を踏み入れるのが気がひけたのだ。
 吉野さん。
 多分、その呼び方も、慎さんルールではエヌジーだ。
 しかし今さら、名前呼びなんてできるだろうか。どうも名前呼びというのが香佑は昔から不得手で、過去つきあった彼氏も、みな、名字のさんづけで通してきた。今さら、匠己さんとか言われても――。
 返事はない。
 香佑は思い切って、壁の向こうをのぞいてみた。
 ――え……。
 そして、息を飲んでいた。
 え――え……、なに、これ。
 そこには、思いもよらない――想像さえしていなかった光景が広がっていた。
 一面石屑だらけの床の真ん中に、見上げるほど背の高い石の像が据えられている。
 石の蓮に座し、両手で印を結び、穏やかな表情で目を閉じている。
 仏の像――仏像。
 ――これ……
 なに?
 お墓じゃ、ない。
 道路脇に飾ってある仏像の類とも、まるで違う。
 天井から、幾筋もの太陽光が差し込み、舞い上がる粉塵を金色の粉に染めている。
 光の輪の中に鎮座する仏の石像は、まるで本当に生きた仏が降臨しているかのような――崇高な、冒し難い威厳さえ感じさせる。
 ちょうど香佑に背を向ける形で、汗に濡れ尽くした匠己の背中が、仏像の右半分を隠すように立ち塞がっていた。
 腕を精密機械のように等間隔に上下させ、彼は一心不乱に石像の肩辺りを金槌のようなもので叩いているようだった。
 夕暮れ時だというのに、眩暈のするほどの熱気と暑さ。匠己の着ているシャツはもう汗みずくで、肘や顎からは汗の玉が滴り落ちている。
 時が静止したような静けさの中、石を叩く音だけが厳かといっていい深さで響く。
 ただ無心に動く腕を、躍動する背中を、香佑は吸い寄せられるように見つめていた。
 動けず、息もできず、声もでてこなかった。
 これほど美しく、汚し難い光景を、香佑は生まれて初めて見た気がした。
 ここにいるのは、誰だろう。
 墓屋の吉野……、違う。まるで別の人だ。
 少なくとも、香佑がよく知っている昔の匠己は、ここにはいない。
 不意に、石の音が止んだ。
 太い息を吐き、右腕を下ろした匠己が、左手で首に巻いたタオルを持って顔を拭う。
「――あれ?」
 そして気配に気づいたのか、だしぬけに振り返った。
 何故か香佑は、逃げるように視線を左右に動かしていた。
「なんだよ。来てんなら声かけろよ」
 落ちた汗が目に入ったのか、眉をしかめ、匠己はタオルでごしごしと顔を拭った。
「なに? まだ、もう少しかかりそうなんだけど」
「いや、……ご飯とか、持ってった方がいいのかな、と思って」
「ん? ああ、もうそんな時間?」
 昼どころか、むしろ夕食の方が近いんですけど。
 匠己が、壁際のベンチに腰掛けたので、香佑はその隣に座って、2人の間にトレーを置いた。
「焼き飯?」
「うん。嫌い?」
「ううん。俺、食い物に好き嫌いないから」
 知ってる。
 そういうの、昔は全部調べたんだ。吉野の好きな食べ物。苦手な食べ物。
 誕生日は8月8日、しし座で、血液はAB型。
 成績はほぼビリに近かったけど、図工と美術は、いつも学校の代表に選ばれていた。
 顎を人差し指と中指で触るのが癖で、何か思案する時、いつも顎のあたりをこすっていたっけ。左の目じりのすぐ上に、ちょっと深い五ミリ程度の傷跡があって、耳は、右側の方が少しだけ大きいんだ。
 そんな些細なことはいつまでも覚えているくせに、肝心のことを忘れてしまったのは何故だろう。
 というより、もともと、これといったきっかけなんてなかったのかもしれない。  私、どうして吉野のことが好きだったんだろう――
「なに?」
「え?」
「俺の顔、なんかついてる」
 気づけば、スプーンを持った匠己が、不思議そうに香佑を見下ろしている。
 何故か香佑は、無意味に頬が熱くなるのを感じた。
「ついてるわよ。髭に石屑がいっぱいついてる。むさいから、いい加減それ、剃りなさいよ」
「明日には剃るよ。この仕事終わったら嫌でも小奇麗にしなきゃいけねぇし」
 匠己は小さく肩をすくめる。
 あ、そうなんだ――と、香佑は内心、少しばかり残念に思う自分に驚いていた。
 おーい。目の錯覚。まさにあれだ。クラス替えの直後、最初はブスばかりだと思っていたクラスの女子が、一カ月後には結構可愛い子いるじゃん、と思えてしまう――慣れからくる、あの錯覚。
「ひ、髭剃ったくらいで、あんたみたいな男が綺麗になりますかね」
「そりゃ、慎さんみたいにはいかないけどさ」
 さすがに、匠己はむっとしたようだった。
「まぁ、いいや。で、慎さんは?」
「昼前には帰ったけど。――何か用だった?」
「いや……」
 その刹那みせた匠己の表情の意味は、香佑にはよく判らなかった。
 不機嫌そうな、それでいて安堵したような、で、そんな自分に困惑しているような。
 上手く表現できないけど、そんな複雑な変化が目まぐるしく掠めさっていったような気がする。
「まぁ……その、慎さんの話だけど」
 香佑は、ちょっと居住いを正していた。
「実は今日、慎さんから、お金、預かったんだ」
「へぇ」
 匠己は興味がないように頷き、スプーンですくった焼き飯を口に運び始めた。
「今日から、家計……やりくりさせてもらうね。あんたに断るより、慎さんに断るべきなのかもしれないけど、この家の場合」
「かもな。俺、一切タッチしてねぇし」
 はぁ……、と香佑は心の中で溜息をついた。慎さんが悪い人だったら、この家、あっという間に何もかも盗られて終わりだな、と思いながら。
 まぁ、悪い人じゃ、ないか。
「……優しいところもあるね。慎さんって」
 少し躊躇いながら、香佑は言った。
「ん? ……そうだな」
「まぁ、上手くやれそうかな。えらそうな態度がいちいち癪に障りはするけど、――言い方きついだけで、根はいい人なのかなって気もするし」
「…………」
 匠己は答えず、焼き飯を口に運び続けている。
「ご馳走様」
「え、もう?」
「うん。美味かった」
 何故かその言葉に、香佑は妙な動揺を覚え、「あ、そう」と無意味に素っ気なく返していた。
 そういうんじゃない。そういうんじゃない。
 吉野と私は――なんていうか、ただの雇い人と雇われ人。お礼言われたくらいで、いちいちときめくような仲じゃない。
 そうでないと――この家で2人で、生活していけそうもないから。
 食事を終えた匠己は、グラスに入った麦茶を飲んでいる。香佑は、少しおずおずと、目の前の石象に視線を戻しながら、訊いた。
「あれ、なに?」
 ああ、と匠己は気安げに頷いた。
「頼まれもの。石選びから数えて約一年かかったけど、ようやく完成、かな」
「……仏、様?」
 知識のない恥かしさから、自然に声も小さくなっている。
「知らなかった。よ――」
 吉野って、墓だけじゃなく仏像も作ってたんだね。
 香佑は、ごほん、と咳払いをした。
 しまった。もう吉野と呼んではいけないのだ。まいったな。どうしてもそれ以外の言葉が出てこない。
 黙る香佑を訝しく見てから、匠己はグラスを置いて立ち上がった。
「菩薩だよ。観世音菩薩。京都の寺に、明後日、収めることになってるんだ。開創五百年記念とかで、二年くらい前から話があって、――まぁ、断り切れなかったっつーか」
 え? なんで断る必要があるの?
 香佑の疑問を読みとったのか、匠己は言葉を切って、首のあたりを掌でこすった。
「仏像は、昔頼まれてよく作ったんだけど、いちいち時間かかるし、他に何もできなくなるし、この店継ぐって決めた時から、大きい仕事は受けないようにしてきたんだ。だって、墓作る時間がなくなるだろ」
「う、うん……」
 香佑は、ぎこちなく頷いた。
 いや、確かに墓も大切だし、その腕の凄さも、吟の奥さんの墓を見て判ったけれど。
 でも、目の前に鎮座する観音像は、それとは全くの別格だ。――別世界の光と厳かさを、悠然とまとっている。
 そこに、生命の光が降りてきているように。
 まだ、香佑には信じられなかった。
 このすぐれた芸術品――そう、それは最早、芸術のレベルに昇華している。こんなものを、本当に匠己1人が創り上げたのか。
 だとしたら、この人って、一体――本当は、どんなポテンシャルを秘めているのだろう。
「じゃあ、もうこの手の仕事は受けないの?」
「報酬でかいから、店が行き詰ったら小銭稼ぎに受けるかもしんねぇけどな」
 あっさり言われ、香佑は唖然と顎を落としていた。
 いや、慎さんにしろ、この男にしろ、なんか感覚、ずれてない? やっぱ。
「あと、表面をピシャンで叩けば終わりなんだけど」
 石像に指で触れながら、匠己は続けた。
「ここまで仕上げるのに、ノブや慎さんや竜さんに、随分手伝ってもらったんだ。彫ったり削ったりは俺1人でやるけど、仕上げの磨きには結構な人力がいるからな」
 技術的なことはよく判らない。が、今の言葉には、香佑は少しだけ驚いていた。
「慎さんって、経理専門の人じゃなかったの?」
「そういうの得意だから任せてるけど、慎さんの本業は、石の彫刻。芸大で、俺と同期だったんだ」
「……芸大?」
「え? 言ってなかったけ。俺ら2人、東京芸大出てるんだけど」
「――東京??」
 香佑は、素っ頓狂な声をあげていた。
 言ってないし、聞いてない。見合いっていっても、形ばかりのものだったから、正式な釣書もなかったし。
 いや、絶対高卒だと思っていた吉野が大学を出ていたことより、東京芸術大学まで出た2人がなんだってド田舎で墓石を造っているのかという疑念より。
 この人――じゃあ、もしかして。
「……東京、いたんだ」
「うん。金銭面では、お袋に随分苦労かけたよ」
 ことの深刻さが判っていないのか、匠己はあっさりと頷いた。
 香佑は、軽い眩暈を覚えていた。
 その大学なら、香佑が仕事をしていた場所と、そんなに遠くなかったりする。 いや――なんかもう、信じられない。それで一度も会わなかった。もちろん、会う確率なんてものすごく低いだろうけど、それでも――向こうが会う気になってくれていたら、連絡をつける術なんて、いくらでもあっただろうに!
「ほんと、とことん縁がないみたいね。私たち」
「は? 何怒ってんだよ」
「別に」
 香佑はつんとして、空になった皿をトレーに乗せて立ち上がった。
 この腹立たしさは、口でどう説明しても判らないだろう。本当に――この、救いようのない無神経な朴念仁め。
「じゃ、夕飯もここに持ってくるから。何時頃がいい?」
「今食ったばかりだから、……あと、六時間くらい後かな」
 それ、十時になるんですけど。
 ま、いっか。
「てか仕事……、そんなに遅くまで終わりそうにないの?」
「明日の昼にはトラック来るから、それまでにやっとけば、大丈夫。あと、ちょっとした仕上げが残ってるだけだから」
 そう答える匠己は、すでに観音像に向き直去って、腕を振りあげている。
 石を叩く音を耳にしながら、香佑はそっと、仕事場を後にした。
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。