18
 
 
 重い息を吐いて、すりガラスの引き戸を開けると、中にいた人が振り返った。
「――慎さん」
 相手の顏を認めた匠己は、少し驚いた声をあげた。
「なんだ。もうとっくに帰ったのかと思ってたよ」
「美桜送って戻ってきた。お前、戸締りとか絶対しないだろ」
「いや、しようと思って。一応、女1人奥で寝てるし」
 シンクの前に立っていた慎が、蛇口をひねってグラスに水を注ぎ入れる。そして言った。
「で、何憂鬱な顔してんの?」
「はい?」
「さっき、溜息つきながら入ってきたじゃん」
 手渡されたグラスの水を飲み干すと、匠己は手の甲で唇をぬぐった。
「そうだっけ」
「てか、お前らいったいどういう夫婦? 会話不自然だし、さっきも痴漢とか助けてとか聞こえてきたし。元同級生の割には、違和感しか伝わってこないんだけど」
「そういうプレイが好きなのかな」
「へぇー」
 椅子に腰掛けた慎は、頬づえをついて、呆れたように匠己を見上げた。
「どういうわけあり?」
「なにが?」
 空いたグラスを持って、匠己はシンクの方に向かった。
「俺らどころか、ミヤコさんの反対押し切ってまで結婚決めたわりには、お前、ちっとも嬉しそうじゃないじゃん。新婚初夜に1人で帰って来るし。奥さん放っといて俺らに丸投げしてくるし」
 匠己は黙って、グラスを洗う。
「そのくせ、夕べは仕事投げ出して追いかけていくし。今朝はついぞ食ったことのない朝飯食ってるし。よく知らねぇけど、わけありの女なんだろ? なにか、お前に考えがあるんじゃないかってミヤコさん言ってたけど」
「お袋は、慎さんが好きだからな」
 苦笑して、匠己はグラスを水切りかごに入れると振り返った。
「つい口も緩むのかな。慎さん、今の話、絶対にあいつにはしないでくれ」
「……ま、そりゃ、知ってんの俺だけだけど」
 慎は鼻白んだように形のいい唇を曲げる。
「ミヤコさんにしたら、そりゃ面白くねぇんじゃねぇの。あんだけ涼子贔屓だったんだ。お前の嫁さんには涼子って、信じて疑ってなかったし」
「知ってる。だからしばらく家離れてもらったんだ。お袋はいい人だけど、少し流されやすくて、口が軽いところがあるから」
「……そうまでして結婚した割には、お互いちっとも嬉しそうじゃねぇし」
「…………」
「彼女なんて、隙あらば逃げ出しそうな目してるぞ。家計任せたとたん、ドロンとか。俺、結構警戒してんだけど」
「慎さん」
 匠己は、椅子を引いて、腰を下ろした。
「今夜、うち、泊らねぇ?」
「はい?」
 なに言ってんの、お前。みたいな目で、慎がまじまじと匠己を見上げた。
「勘弁しろよ。痴漢プレイやってる新婚家庭になんだって俺が」
「……てか、理性が……」
 匠己は、独り言のように呟いた。
 ――こんなに早く限界感じるなんて、ちょっと予想外だったけど。
 普通、無理だろ。あんな声聞いたら。
「俺さ、昔、好きだった奴がいたんだ」
「へぇ」
「気づいたのは、中三の時。そいつが転校してったその日。朝起きたら忽然とそのことに気づいて、急いで新幹線の駅まで追いかけたんだけど、目の前で扉が閉まってごーっ。漫画みたいだろ」
「てか、作り話みたいだな」
「だったら、いいんだけどね」
 匠己は苦く笑って、頬づえをついた。
「笑うなよ。二回、東京まで追いかけていったんだ」
「はい? お前が?」
 慎は目を丸くした。大学で同じ学部に籍を置いていた高木慎は、18歳から今日までの匠己のことを、多分、誰よりもよく知っている。
「嘘だろ。あんだけ女に追いかけられても、誰も追いかけたことのない冷酷非道のお前が?」
「……それ、慎さんにだけは言われたくねぇんだけど」
 匠己は唇を尖らせ、軽く息を吐いた。
「ま……渡してやりたいものがあったんだ。結局、渡せずじまいに終わったけどな」
「なんだよ。もしかして熱烈なラブレターとか?」
「ばーか」
 匠己は苦笑して肩をすくめた。
「今にして思えば、タイミングがとことんあわなかったんだろうな。それ以前に、向こう、とっくに俺のこと忘れてただろうし」
「それが……まさかと思うけど、今、腰悪くして寝てる女?」
「そのあたりは想像――って、するまでもねぇだろ。俺、自分が思うより、相当一途だったみたいだ」
「…………」
「今でも、あいつのこと、放っておけないんだ。もし俺のこと少しでも好きでいてくれたら、逆にこんな形で結婚なんてしなかったと思う。理解しにくいと思うけど、あいつが生計たてるために好きでもない男と結婚するなら――」
 慎は、綺麗な眉をつりあげた。
「自分しかないと思ったのか。馬鹿だな、お前。前から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、真性の馬鹿だ」
「なんとでも、言えよ」
「で、手も出さずに、彼女がいつか家を出て行く日まで見守るつもりか。ああ――呆れて、ものも言えねぇよ!」
「言ってるじゃん」
 笑いながら、匠己は慎を遮った。
「でも、もう二度と口にしないでくれ」
「…………」
「約束しろよ。慎さんには知ってて欲しいから何もかも話したんだ。慎さんだけでも、あいつの味方になってやってほしいから」
「…………」
「いい奴なんだ。俺、この辺じゃ変わり者の嫌われ者で、女子どころか男子の中でも浮きまくってたんだけど、そんな俺に、あいつ、五回も告白してきたんだ。振っても振っても、すげーだろ」
「……見る目は、あるんだな」
「根性もな」
 匠己は苦笑して立ち上がった。
「慎さんには迷惑かけるけど、あいつのこと、よろしく頼むよ。俺、明後日からしばらくいなくなるし、家のことじゃ、助けてやれることは殆どねぇから」
 そう言いながら、戸棚から新しいグラスを出した。水――早く持ってってやんなきゃな。
「そのよろしくってのは」
 匠己を横眼で見上げながら、慎は冷やかな口調で言った。
「俺が万が一 ――そんなこと今は爪の垢ほども思っちゃないし、その可能性はマイクロ以下なんだけど、彼女のことを好きになってもいいって、よろしく?」
「慎さんが?」
 匠己は目を丸くした。
 匠己もまた、慎のことなら、大学一年の頃からよく知っている。
「そりゃ……そうなったら、別の意味で驚きだけど」
 しばらく考えた匠己は、小さく息を吐いて、グラスの埃を指先で払った。
「それも含めてのよろしく、になるのかな。……あいつには幸せになってほしいんだ。少なくとも、あいつが慎さんのこと好きになったら、俺は全力で応援すると思う」
 
 
            19
 
 
「おおお、完成!」
 草を全て引き抜いた畑の前で、香佑は渾身のガッツポーズをとっていた。
 じりじりと背中が焼けている。香佑は鼻を膨らませたままで、腕時計を見た。正午まであと少し。今日は美桜が休みだから、昼食作りは香佑の仕事だ。
 その前に、なんでだか夕べから家にいる高木慎に、この完璧な畑を見せつけなければ。
「ほー、やったじゃん」
 が、呼びに行くまでもなく、背後からその高木慎の声がした。
 麦わら帽子に、首にはタオル。完璧田舎農夫のスタイルなのに、それでも輝いてみえるのは何故だろう。女性に生まれていれば、さぞかしその美貌を誇れただろうに。
「どうよ」
 香佑は、腰に両腕をあてて、胸をそらした。
「手際を覚えたらこの通りよ。なんてことなかったわ。本も全部読んだしね!」
「水、ちゃんとやっとけよ」
 慎は、にこりともしなかった。
「肥料は駐車場横の倉庫の中、買い置きが切れたら、自分で補充するように。基本、畑のことは全部あんたに任せたから」
 それだけ言って背を向けた慎の背中に向けて、香佑は中指を一本たてた。
 一昨日宮間が言っていたとおりだ。心の中まで氷で出来ている男。
 肥料買い足せって? だったらお金くらいちょうだいよ。人使いばかり荒くて、給金一切ないなんてどういうこと?
「ぶーっ」と息を吐きながら、香佑はタオルで顔を拭った。基礎ファンデだけを塗った顔。一応SPF20はあるから、多少は紫外線をカットしてくれるはずだ。
 しかし、こんな強い日差しの下では――残金二千いくらしかないけど、思い切って安い日焼け止めクリームでも買おうかな。このノリ、まるで一カ月一万円生活みたいだ。
 が、顔と手を洗って食堂に入った香佑は、そのまま息を止めていた。
「……え」
 なにこれ。
 白い封筒の上に、えらい達筆な字体で、生活費、と書いてある。
 やりくりの上、月末には家計簿を提出すること。
 香佑は振り返っていた。
「言っとくけど、うちにはそんな余裕はないんだ」
 慎の声は、相変わらず冷たかった。
「あんたがとりあえず自由に使っていいのは、二万円まで。それで、まず携帯電話を契約して、身の回りの必要な物を買え。あとはやりくりでなんとかしろ」
「え……じゃあ」
「美桜は買い物にいけないから、買い物はあんたの担当。そこに入ってるのは基本、食費と生活小物の費用だけだからな。足りなくなったら」
「マジで……?」
「え?」
「携帯も、いいの?」
 香佑は、真剣な目で慎を見上げた。
「てか、なんで私が携帯持ってないって知ってたの? そんなの、誰にも話してなかったのに!」
「いや、それは」
 何故だか慎は、わずかな狼狽を目に走らせて言葉に詰まった。
「使ってないように思えたし、美桜がそんなこと言ってたから。女の子に携帯電話は必需品だろ?」
 いや、女の子以前に、現代人にはもう、携帯電話は切っても切れないというか――
 二万まで自由に使っていいのなら、化粧品だってやりくりすれば、なんとかなる。
 てか、携帯電話のことまで気を回してくれていたなんて……。
 以前使っていた携帯電話は、料金が払えなくて契約を切るしかなかった。そのことは、恥かしくて実家の父にも言っていなかったのに。
「お、おい、こんなところで泣くな」
「だ、だって」
「…………」
 着ていたシャツの袖を目がしらに当てて、香佑はしばらく動けなかった。
 なによ、なによ。
 ずるいじゃない。冷たいと思ってた男に、不意打ちみたいに優しくされたら、もう女なんて泣くしかないんだから。
「ありがと……慎さん」
「だから慎さんって、馴れ馴れしく言うな」
「うん。でも……ありがとう」
 香佑が涙をこすりとって見上げると、慎は少し困ったように視線を逸らした。
「まぁ……俺に感謝されても、困る」
 香佑もまた、少し慌てて言い訳していた。
「べ、別に、あんた個人に感謝してるわけじゃないわよ。あんたが私を、養ってくれてるわけじゃないんだし」
 ただ、この会社の金庫番ってだけで――
 でも、そうは言っても、こうやってお金を渡されると、高木慎に認められたみたいで嬉しい。仕事がどうこうではなく、この店の一員になれたみたいで。
 それから、思いの外、自分を見ていてくれたことも。
「判ってるなら、それでいい」
 何故だか慎は、安堵したように頷いた。そして、やはり気まずそうに首のあたりに手をやった。
「――で、悪いけど、俺はもう帰るって匠己に言っといて」
「あ、そうなの?」
 てっきり、仕事の関係で泊っているとばかり思ったけど。
 エプロンをとって腰に巻きながら、香佑は炊飯器の蓋を開けた。
「昼御飯、焼き飯でも作るから食べていってよ。吉野は勝手に食うから置いといてくれって言ってるし、私1人で食べるのも寂しいじゃない」
 朝もそのパターンで、何故だか香佑は、このいけすかない男と2人で朝食の席を囲んだのだ。これでは、誰と結婚したのだか判らない。
「……吉野、って呼ぶんだ」
「え?」
 香佑は振り返って、瞬きをした。
 慎は何故か、暗い目をしている。
「いや、結婚してるのに、おかしくね? と思って」
 しまった――。
「あら、吉野って言ってた? 私」
 香佑はわざとらしく「やだぁ」とか言ってみた。
「お、幼馴染だから。癖がどうしても抜けないのね。向こうも、未だ嶋木とか言ってるし」
「腐っても、匠己はうちの社長だからな」
 何故だか、慎は、やや不機嫌になったようだった。
「人前では、絶対に吉野なんて呼び捨てにするなよ。匠己さんと呼べ。様でもいい」
「はぁ? 様??」
 ど、どんだけ時代錯誤な呼び方よ、それ。
「そのためには、普段からの練習が何よりだ。いいか、俺の前で、二度と匠己を吉野なんて呼んでみろ。二度と店の敷居を跨がせないからそう思え!」
 鬼みたいな形相でとんでもなく厳しく言い棄て、慎はそのまま、肩をいからせて台所を出ていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。