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17
「楽になった?」
「まぁ……少し」
やれやれ。と重い溜息が頭上で聞こえた。
扉が閉められ、声の主――匠己の気配が近づいてくる。
うつ伏せで布団に寝かされた香佑は、恥かしさとふてくされた感情をもてあましたまま、不機嫌丸出しの声で呟いた。
「てか、なんであんたが来るのよ」
「しょうがねぇだろ。こういう場合、嘘でも亭主が対応するしかねぇじゃん」
本当の亭主でもないくせに――
そう思ったが、高木慎や宮間信由に同じ真似をされるよりは、確かに何倍もマシだった。
いや、香佑はできれば同性の美桜に助けて欲しかったのだ。が、肝心の美桜にその思いは伝わらなかったのか、「私、匠己君呼んでくるからっ」と、なんと真っ先に飛び出して行ってしまったのだからどうしようもない。
結局、匠己が駆けつけてくるまでの数分間、香佑は、宮間、高木、加納の三人に、なんとも恥かしい姿をさらしてしまうことになった。
「ほんと、人騒がせな奴だな、お前って。昨日と今日と、うちに来てたった二日で、どんだけ騒ぎ起こしてんだよ」
一日目に家出して、二日目にぎっくり腰。……確かにそうだ。今日のは不可抗力とはいえ、なんて最低な新婚の二日間だったろう。
「おい、湿布貼るから、背中出してみろ」
――は?
その匠己の声に、香佑は吃驚して跳ね起きそうになっていた。が、その途端、目の前に火花が散るほどの激痛が走る。
「い、った。あいたたた……、って、痛いけど、無理。駄目。そんなの絶対に無理だから」
「じゃ、どうすんだよ。放っといていいのか。それとも自分でなんとかするか」
うんざりしたような声が返される。
それも――困る。とにかく、一刻も早くこの痛みをなんとかしないと。
「湿布って……効くの?」
おそるおそる香佑は訊いた。
「やんないより、マシだろ」
すでに匠己は、湿布の袋を口にくわえて破っている。
美桜に呼ばれて駆けつけてきた匠己は、すぐに従業員たちを部屋から追い出し、布団を敷いて、固まる香佑をそこになんとか寝かせつけてくれた。
その過程で、様々な個所を触られたことは、もう思い出したくもないが、結構な迷惑をかけてしまったことだけは間違いない。
一度は出て行った匠己だが、それからしばらくして、再び部屋に戻ってきてくれた。
時刻は、午後十時――すでに、従業員たちは引きあげたのか、家の中は静まり返っている。
こんな状態で1人になるのは、なんとも心細いけど――
「……戻ってよ。私1人で大丈夫だから」
そっぽを向いたまま、香佑は言った。
「湿布くらいなら自分で貼れるよ。仕事、大変なんでしょう? 1人でこもって、何やってんのか知らないけど」
「今夜はもう、引きあげてきたよ」
――え……?
畳と衣服がこすれる音がして、暗い影に覆われる。次の瞬間、香佑の着ていたシャツがいきなり上に引き上げられた。
「えっ、えーっっ」
「うるせぇな。少し黙れよ」
いやいやいやいや、そんな、そんな。黙れとか言われても!
背中の素肌に、乾いた手が直に触れる。
「やっ、やだ。触らないで、えっち!」
もがいた身体を、上から押さえつけられる。
香佑はもう真っ赤になって、手足をじたばた動かした。
「ぎゃーっ、痴漢っ、変態男! 助けて、この人痴漢です」
「騒いでも、誰もいねぇよ」
匠己の声は、完全に呆れている。
「お、襲う気?」
「それもいいな。夫婦なんだし。――てか、早く終わらせたかったら、静かにしてろよ。背中なんか見たところで、どうにもこうにもなんねぇよ」
確かに――背中だから、あれこれついている前とは違う。香佑は観念して目をつむった。
「は、早くして……」
拳で枕のあたりを掴みながら、ぎゅっと腹に力をいれる。こんな状況でまさに馬鹿げたプライドだが、ウエストを、少しでも引き締めて見せるために、だ。
ひやりとした感触が、無骨な指と共に、腰のくびれの丁度背後あたりに当たった。
「……ひぁ」
鼻にかかった声をあげ、香佑は顎を逸らしている。
「っ、馬鹿、今みたいな状況で、へんな声だすな」
ぎょっとした声で、匠己が一瞬指を離す。
「だ、出してな、……んっ」
それでも、苦痛だか快感だか判らない感覚に、細い声が喉から洩れる。
「ちょっと、……やっ」
「――おい、それ、わざとだったら怒るからな」
実際、少しばかり指使いが乱暴になる。香佑は痛みに眉をしかめながら首だけをねじまげて抗議した。
「わざとなわけないじゃない。あ、あんたが、へんな触り方するからよ」
「マッサージしてんだよ。頼むから、少し黙ってろ」
苛立った声が返される。
マッサージ??
え、そんなこと頼んでないし。湿布貼るだけのはずなんじゃ……
「……もう、さっきみたいな声出すなよ」
「…………」
腿の上を、匠己が跨いでいるのが判った。シャツが元通りに下ろされ、その上から両手を腰にあてられる。
「っ……あっ」
びくんと、その刹那、背中が海老みたいに跳ねていた。
「それ、絶対わざとやってるだろ」
「ち、ちが……」
そんなの、違うに決まってるじゃない。
あっ、でも、そんな風に触られたら――
香佑は枕に顔をうずめ、それを両側から握り締めるようにして、もんどりうちそうな感覚に耐えた。
それでも、時々、うっとか、ひっとか、ひゃっとか言う声が、くぐもりながらも喉から洩れる。
匠己は、呆れているのか、もう軽口さえ叩かない。
力強い親指と掌が、背中の痛みの芯みたいな場所を、押したり揉んだり、圧したりしながら刺激する。
衣服越しではあるけれど、その指が、少しだけ汗ばんで感じられる。それは、香佑の身体から出た汗なのかもしれない。なにしろこんなに緊張して――こんなに恥かしい思いをしたのは初めてだ。
「声は出さなくていいけど、痛かったら遠慮なく言えよ」
頭と肩を震わせている香佑が、さすがに気の毒になってきたのか、匠己が初めて優しい声をかけてくれた。
「お袋の腰、時々揉んでるから慣れてんだ。あの人もいい加減、ひどい腰痛持ちだからな」
「そ……なの?」
「うん。だから、そんなに緊張すんな」
別に、あんたの腕が信じられなくて、緊張しているわけじゃないけど……。
掌と声から、匠己の体温と優しさが伝わって来るようだった。
枕の中で強く奥歯を噛みしめたまま、香佑はなんだか泣きたくなった。
人生最大の屈辱と敗北感――まさか、こんなみっともない事態に、新婚早々陥るなんて……。
「……痛いか?」
「………」
ただ、黙って首だけを横に振る。
もう、痛みはない。心地良い重みと、身体を密着させているという安心感。でもそれを、今口に出して認めたくない。
匠己もそれきり、何も言わなくなった。
微かな息遣いを背に感じる。温かい掌。硬い腿。昨日使ったシャンプーの香り。
「私たちって、へんじゃない?」
その匂いに包まれた時――ふと、そんな言葉が漏れていた。
「ん?」
「だって……、手も繋いだことがないのに、こんなこと、してるし」
「なに? お前の順序じゃ、男と女ってのは、まず手を繋がなきゃいけないわけ」
匠己の声は、楽しそうだ。
「いいんじゃね? もともと俺たち、順番が最後のあたりから始まってんだから」
「…………」
始まってる――。
本当に何かが、私たちの間に始まっているのだろうか?
「ま、こんなとこかな」
「ありがと。本当に、上手いんだね」
匠己は答えず、香佑の腰から手を離すと、そのまま跨いでいた背中から降りた。
「ちょっと店、見てくるわ。戸締りとか心配だし」
「あ、うん」
大きな背中が立ち上がる。結んだ髪をおだんごみたいに一つにしているから、首と顎の線が顕わになっている。その男らしい太やかさに、香佑はしばらく――不覚にも――見惚れていた。
「戻って来ないの?」
「え」
扉に手をかけた匠己が振り返る。自分が何を言い出す気だったのかさえ判らないままに、香佑は、自然に頬が熱くなるのを感じた。
「いや、今夜はどこで寝るのかと思って」
「…………」
「いや、いつもどこで寝てるのかさえ、知らないから」
言い訳がましく続ける香佑をどう見たのか、匠己は数度訝しげに瞬きをした。
「いてほしいってんなら、ここで寝てもいいけど」
「!――それは無理」
即答すると、匠己の目が、にやっと笑ったような気がした。
「その方が無難。俺も一応男だしな」
「な、そ、それ、どういう意味よ」
「そりゃあ、まぁ……、朝までぐっすりってわけにはいかないだろ」
――は?
ぎょっとした香佑は、仰向けに体勢を変えて、夏布団を顎まで引き上げる。
匠己が、おかしそうに笑う気配がした。
「なんか台所から持ってこようか」
「え、……じゃあ、水か何かお願いしていい?」
小さく頷き、そのまま匠己は部屋を出ていった。
1人取り残された香佑は、動悸をもてあましたまま、天井を見上げる。
なんなのよ、今の。
何気に問題発言じゃない?
男だからって、どういう意味? しかも朝までとかなんとか。
どうせ形だけの結婚なのに、その相手を挑発してどうする気よ。
よからぬ想像を巡らせた香佑は、頬を熱くして、その妄想をばたばたと扇ぎやった。
いやいやいや。それはないでしょ。
他に好きな女がいるくせに、それじゃ、あまりにも軽薄すぎるじゃない。
ジョークか、それともからかわれた。腹立たしい、吉野のくせに、私を上目線であしらうなんて。
「…………」
吉野は――多分。
そんなに、軽薄な男じゃない。
天井を見上げたまま、香佑は何故だか憂鬱な気持ちになって、息を吐いた。
好きな人がいるというなら、多分今でも、本気で一途に、その人のことが好きなのだ。
かつては、東京まで追いかけたほど。
今でも、母親を心配させるほどに――
横を向いた香佑は、腰の痛みが殆ど治っていることに気がついた。なのに、気持ちだけが、痛かった時以上に沈んでいるのは何故だろう。
あれだけ奥手だった吉野が、この町を飛び出すほど好きになった人。
それが、なんで私じゃなく、他の女だったんだろう。
いまさら、時を戻せとは言わないけど、せめて知らないでいたかった。
五度――いや、六度も自分を拒否した男が、他の女をいかに愛しているかなんて、死ぬまで知らないでいたかった。
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