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「え、……ここで一体、なにするの?」
 呆然とする香佑の前に、「ほら」と、使い古しの軍手が差し出された。
 家の裏にある墓場を超えて、少しばかりの傾斜道を登った向こう。
 そこには、草だけが生えた田んぼ――つまるところ、休田が広がっていた。その田の一部にビニールハウスと思しきものと、掘り起こされ、畑と化した部分がある。
「ここは、吉野家の田んぼだよ」
 香佑をここまで連れてきた高木慎は、そう言って、香佑の手に軍手を押し付けた。
「とはいえ、今は誰も米なんか作ってない。数年前から、ミヤコさんが家庭菜園の場にしてるんだ。トマト、茄子、キャベツに胡瓜。畔の向こう側になるけど、スイカ畑なんかもある」
「はぁ」
 香佑は呆然と、目の前の光景に視線を巡らせた。
 周辺は一面の荒田、そのあぜ沿いに延々と広がっている畑――結構な、広さだ。
 なんだか、とてつもなく嫌な予感がした。
「で、ここで、私は何を?」
「見りゃ判るだろ。畑の草引きだよ」
 両腕を腰にあて、傲然と慎は命じた。
「草引き?」
 まさか、それが私の仕事?
「そう、つまり畑の手入れ」
 慎は、顎をしゃくるようにして頷いた。
 2人の背後では、ヒグラシが鳴いている。柑子色の夕陽が、薄雲を金赤色に染めている。
「新入りのお前に最も相応しい仕事だよ。ミヤコさんがいない時は、俺とノブで畑の世話をしてたんだ。今は忙しくて猫の手でも借りたい時期だからな。これなら、猫以下のお前でもできる」
 ようやく全容を理解した香佑は、眉をあげて振り返った。
「嘘でしょ、ここ全部を、私1人が?」
 ありえないほど、とんでもなく広いんですけど。
 それに畑仕事なんて、生まれてこの方一度だってやったことがない。
「無理よ! 体力的に絶対無理。草なら除草剤とか巻けばいいじゃない!」
「……食い物の上に、そんな毒巻いてどうするよ」
 慎は心底呆れたように、冷やかな目で香佑を見下ろした。
「でも――じゃあせめて、草刈り機とか」
 まだ抗議しようとした香佑を無視して、慎は額に手をあて、遠くを見るような素振りをした。
「おっ、相当勢いよく生えてんなー。10日くらい前から、忙しくて誰も手ぇつけてないからなー。盆前のくそ忙しい時期に、社長がいきなり結婚するなんて言い出すから」
 なにそれ、厭味?
 香佑の視線をむしろ面白そうに受け止めて、慎は軽く肩をすくめた。
「幸い、明日は店の定休日だしな。日中はぶっ倒れるほど暑いから、草引きは日暮れと朝の内に済ませとけよ。そうそう、あんたの部屋に『家庭で出来る野菜作り百科』を置いといたから、それもしっかり読んで勉強するように」
「はぁ??」
「よかったな。あんたにも出来る仕事があって」
 ちなみに、ここらが胡瓜で、こっちが茄子で――
 一通りの説明を済ませると、慎は「じゃ、俺は飯食ってもう一仕事してくるから」と、あっさり家の方に戻っていった。
 これ……。
 ヒグラシの物悲しい鳴き声を聞きながら、香佑は呆然と立ちすくんでいた。
 絶対、イジメ、入ってるよね。今の私、鬼コーチにいびられる根性マンガのヒロインみたいな――
「マジで……?」
 かがみこんで草抜きなんて、手前の一列だけで絶対に腰が悲鳴をあげる。
 しかし、やれと言われたら――しかもそれを、高木慎みたいな厭味な男に言われたら、意地でもやり遂げたいという思いがむくむくと湧いてくるのが香佑なのだった。
「やるわよ。やってやるわよ。見てなさいよ。高木慎」
 シャツの袖をまくり、軍手を装着すると、香佑は勢いよくしゃがみこんだ。
 こんな仕事、東京でやっていた仕事に比べたらなんでもない。
 いや、そんなことより、私が使える女だって、少なくとも猫以上の存在だって、なんとしてもあの男に認めさせなくちゃ。
 
 
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 ――死ぬ……。
 てか、もう半分死んじゃってる。腰が。
 8時過ぎに、自室でうつぶせに倒れたまま、香佑は半眼になってぜいぜいと息をしていた。
 意地になって少しばかりやりすぎた。膝も腰も鉛を含んだみたいに重いし、足首と二の腕は藪蚊にやられて赤く腫れあがっている。
 それでも、まだ半分も終わっていない。
 てかこれ、私1人じゃ絶対に無理じゃない!
 帰ったら、とにかく慎に文句を言ってやるつもりの香佑だったが、作業場に煌々と輝く灯りと機械の音を耳にすると、何も言う気がしなくなった。
 多分、従業員は全員が残っている。
 盆前が忙しいって、やっぱり納期が重なってるんだろうな。墓石とか灯篭と か、想像するだけで注文が沢山ありそうだし。
 どうでもいいけど、そんな最中、社長のあの人は一体何をしているんだろう。しかも明後日から京都に行くって……。
「入りますけどー」
 廊下の方から声がして、それが美桜のものだと知った香佑は、咄嗟に起き上ろうとした。
 その刹那、腰に、今まで感じたことのないような鈍くて深い痛みが走る。
「?――あ、いっ」
 くぅっと喉から声が漏れたところで、鍵を締めていなかった扉が開いた。
 なおも立ち上がろうとした香佑は、わずかに腹に力を入れただけで、とんでもない深さの痛みが腰に走ることに気がついた。
 な、なに、これ。これがまさか、俗に言うところのぎっくり腰……?
 最悪だった。両手を畳について腰だけを背後につきだした、なんとも奇妙なポーズのまま、腰が固まって動けない。
「……何やってんですか」
 案の定、扉の前に立ったまま、美桜は唖然と呟いた。
 エプロン姿、片手にトレーを持っている。首だけをねじまげた香佑は、根性でにっこりと笑って見せた。
「ヨガよ。知らない? 犬のポーズ。今度教えてあげようか」
 大人の貫録で返したつもりが、痛みで声がひきつっていた。美桜は、そんな香佑をたっぷり一分は呆れたように見ていたのかもしれない。
「いいです。そんな年じゃないんで」
 冷やかに吐き捨てた美桜は、そのままずかずかと部屋に入ってきて、香佑の背後にある円卓の上に、トレーのようなものを置いた。
「なに、それ」
「台所がいつまでも片付かないんで。私、もう帰るんです。明日は店、お休みですから」
 定休日でしょ。知ってますよ、それくらい。
 視線だけをそろそろと向けると、卓上にはラップが被せられたカレーライスが置かれていた。
 ――え……。
 もしかして、それ、私の夕食?
 そのままの姿勢で、香佑は思わず美桜を見上げている。
「持ってけって、慎さんに言われたんで」
 香佑の視線を、どう解釈したのか、何故か言い訳がましく言って美桜はすっくと立ち上がった。
「それから台所に、匠己君の夜食とか色々置いてあるんで、適当な時間に持ってってあげてくださいね。じゃ、失礼しまーす」
「ちょっ――」
 多分、わずかに垣間見せられた少しばかり不器用な優しさにすがるように、香佑は美桜を呼びとめていた。
「あの、ちょっと、実はさ」
 足を止めた美桜は、嫌悪も顕わに振り返る。
「は? なんですか。外で信由君が待ってるんですけど」
 いや、その、実は。
 腰が――動かなくて、このままの姿勢じゃ、少しばかり辛くて。
 なのに、その言葉がどうしても素直に出て来ない。
「なんていうか……この、ヨガのポーズがね」
「はい?」
「その、1人じゃやりにくい部分もあって、ちょっと手伝ってくれたらなーって」
 その時、廊下の方でばたばたと乱雑な足音がした。
「美桜ちゃん。悪いけど少し急いでくんね? 早く送って戻って来いって、慎さんが真剣に切れそうになってんだよ」
 宮間の声である。げ、嫌な時に――と思うより早く、「うおっ」と素っ頓狂な声が響いた。
「お、女将さん。なんつーみだらな格好を! 発情した犬じゃないんっすから」
「ばっ、おかしなものにたとえないでよ!」
 顔を赤くした香佑は真剣に抗議したが、もちろん、この格好のままではいまひとつ緊迫感に欠けている。
 宮間と美桜は、扉の前に立ったまま、訝しげにそんな香佑を見下ろしているようだった。
「いやぁ、でもそうとしか見えねぇなぁ……」
「私にもそう見えるんだけど、なんか、ヨガって」
「え、よがる?」
「あ、ヨガるっていうんだ。こういうの」
 違う違う違う。
 香佑は脱力しながら、心の中でぶるぶると首を横に振った。
 おーい。2人、なんか話が変な方向に行ってますよ!
「おい、ノブ、てめぇ、いつまで家の中ウロウロしてんだ」
 最悪の事態はまだまだ続く。次は高木慎の声が近づいてくる。
「みっ、美桜……じゃない、横山さん!」
 プライドをかなぐりすてて、香佑は叫んだ。
「こ、腰が痛くて動けないの。誰か――誰でもいいから、助けてください!」
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。