部屋に戻ると、室内には人が立ち入った気配があった。
 リージアは心底驚き、立ちすくんでいた。
 寝室の長椅子に、所在なく座っていたのは、もう――何年も、ここへ来る事のなかった夫、ラウルだった。
「久しぶりだな……」
 彼は低く言い、ゆっくりと立ち上がった。
 遠征から戻ったばかりなのか、銀の甲冑に紫紺の外套を身につけている。
 髪は伸び、こころなしか、広い肩が痩せて見える。
 単に痩せただけではなく、目から肌から、疲れのようなものが滲み出ているようだった。
「いら草が、もうなくなった頃だと思ってな」
 彼はそのまま、窓辺に立った。
「すまないな。いら草の生える牧草地は、もうこの国のものではないのだ」
 どこか、遠くを見るような眼差しで、彼はくすんだ空を見上げていた。
 その表情が――まだ、少年の面差しを残していた頃の彼と重なり、リージアは戸惑って視線を下ろした。
「今、あちこちに手を回して探させている……珍しい草だそうでな、なかなか見つからない」
 ――もし、見つからなかったら……。
 リージアは、思ってもみなかった可能性にいきあたり、不安で眉をひそめていた。
 この五年余の時間が、兄を救う最後の機会が――もし、永久に失われてしまったら――?
「この国は、もう駄目かもしれない、……お前はどうする、カスマニアへ帰るか」
 ラウルの声に、リージアははっとして顔を上げた。
「お前には……衣を縫う環境さえあれば、それでいいんだったな。カスマニアには、今アイルも戻っている。離縁されたらしい、莫迦な女だ」
 ため息のようにそれだけ言い、ラウルは額に落ちた髪を払った。
「他の女たちは全て生国に帰してやった。後はお前のことだけだ。まぁ、……いいようにしてやるさ、いら草のことは、もう少し待っていろ」
 それだけ言うと、そのまま男は、扉の方に歩いていく。
 その袖を掴んでしまったのは――何故だったのか。
 驚いた眼が振り返り、少しの間があって、そのままリージアは抱き締められていた。


 寝台の上に仰向けに倒され、リージアは彼の髪の色を見つめていた。
 いつものように――視界を閉ざさないで、目を開いて。
「リージア……」
 ラウルの声は優しかった。まるで――初めて聞く人のように。
「お前の顔を、もっとよく見せてくれ……」
 綺麗な目をしていると思った。こんな優しい顔をする人だったなんて、今まで気付きもしなかった。
「俺を好きか」
 それでも、黙って首を振る――左右に。
「そうか……そうだな」
 どこか寂しげな苦笑と共に、大きな掌で髪を撫でられた。
「俺は……好きだった」
「…………」
「俺は………ずっと、好きだった……」
 声を出さずに、リージアはラウルの肩に額を寄せて、目を閉じた。
 彼の動きに身を任せた。
「リージア……言え」
 首を振る、横に振る。
「俺を好きだと。今は心の底から俺の妻だと、言ってくれ」
 激しく振る。
「お前は、そんなに……兄に掛けられた魔法を解きたいか」
 首を振る。
 もう――ラウルの質問の意味を、正確に汲み取ることさえ難しかった。
「声を出せ……お前の声を、聞かせてくれ」
 苦しい。
 息ができない。
「リージア」
 苦しいのに――切ない。感情の激流に、声よりも悲鳴が漏れそうになる。
 耐えかねたように顔を上げた男が、再び身体を重ねてくる。きつく、力強く抱き締められる。
 ――ラウル………。
「お前の……そんな顔をはじめて見た……」
 ラウルはかすれた声でそう囁き、リージアの額に口づけた。
「……俺の妻よ……」
「…………」
 胸を衝くほど強く込み上げた感情が、リージアを覆う仮面にひびを入れそうになる。
 歯を食いしばるようにしてリージアは耐えた。
 ほとばしるように強く抱き締められ、ラウルは呟く。
「言ってくれ……お願いだ……」
 懇願のような声。傲慢で寡黙な男が発した初めての声音。
「お前の声で、最後に……俺の名を呼んでくれ」
 彼が、この戦で死を覚悟していることは、今日、この部屋でたたずむ横顔を見た時から察していた。
 胸が痛かった、苦しかった。
 リージアは、今、はっきりと悟ったのだった。
 初めて彼と出会った日、どうしてあれほど激しく――彼の求婚を拒絶してしまったのか。
 ――あなたに、先に出会っていたら……。
 夫を見上げる妻の目に、涙が浮かび、それは幾筋もの糸となって頬を伝った。
「……なぜ、泣く……」
 ごめんなさい。
 リージアは心の中で繰り返した。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
「泣くな……」
 唇が涙を拭う。
「もう、お前が泣くのを見るのは、嫌なんだ」
「…………」
「お前を……愛しているから」
 

 朝がくるまで、何度、同じ感情を彼の胸の中で迎えたのか――
 けれど、リージアは、一言も口を聞くことはしなかった。
 それが――どれほど残酷なことであるかを知っていながら。
 夜明けと共に、出て行った夫の背を、あえて見ずに。
 リージアは手元の編み棒を取った。
 涙が溢れるに任せたまま、彼女は見えない糸を手繰り、一心腐乱に編み棒を動かし始めた。
 その朝別れた夫が、リージアの部屋を訪れることは二度となかった。
 二度と―――永久に。


 いら草は届かなかった。
 ―――おそらく……永久に届けられることはないのだろう。
 荒れ果てた庭園にたたずみながら、リージアは、この城を出て行くことを決意していた。
 あと百着、なんとしても編み上げなければならない。城を出て、自分の脚で、残るいら草を探し出す――もう、それしか方法はない。
 六年まであと十ヶ月あまり、残された時間は、そうはない。
 主人である王を失った城は、さながら終焉の時を待つ墓標だった。
 重苦しい気持ちで部屋に戻ったリージアは――部屋に広がる光景を見て驚いた。
 ――これは……。
 室内の床一面にいら草が溢れ返っていた。取ったばかりの、まだ茎から雫が滴るほどの――新鮮で鮮烈な野の香り。
 ――どうして……。
 茫然とその一房を指で救い、微かな棘の痛みを指先に感じた時。
 リージアは、重臣たちから聞かされた、ラウルの最期のことを思い出していた。
(お一人で、敵の輪の中に切り込んでいかれて……)
(驚くほど沢山の刀傷を負われて、それでも、あの方は、馬を蹴って駆けていかれたのです)
 何処へ。
 その行方を知っているものは誰もいない。
 ただ、確かなのは――彼の傷が致命的であったことと、そして。
 彼が向かった方向には、リージアの生国、ダイノアスがあり、国境にはフォーレーンの森が広がっているということだけだった。
 リージアは、……たった今手折ったと言っていいほど新鮮な、そのいら草の葉を細かく裂き、そして編み棒を取り上げた。
 彼女は、フォーレーンの魔女の言葉を思い出していた。
(――勇敢な若者よ……いずれ、お前をわしのものにすると誓おう)
 リージアの瞳に涙が溢れた、それは頬を伝い、顎を滴り、手元のいら草を濡らし続けた。
 ラウルは、その命と魂と引き換えに――おそらく魔女と取引をしたのだ。
 このいら草を手に入れるために。
 泣きながら――果てることのない涙で頬を濡らしながら、リージアは衣を編み続けた。
 指に新しい傷が出来、碧の衣に赤い沁みが滲んでいく。
 涙と血が沁みこんだ衣を――リージアは、ひたすら編み続けた。
 寝ることも食べる事も、なにもかも忘れ、心と命の全てを賭けて。
 そうすることが――ただひとつの、ラウルに対する贖罪だと思っていたから。


「この女か」
「ええ……薄気味悪い、今じゃ誰も、恐ろしくてこの部屋に近づけません」
「この国では手に入らないいら草が、ある時いきなり、この女の部屋に湧き出てきたんです。輿入れて以来、口も聞かず、だまって薄汚い衣ばかり編み続けている……あれは、間違いない、魔女の手下ですよ」

 扉が開かれ、異国の服を着た男たちに取り囲まれても、リージアが手を休めることはなかった。
 ガーディアという国は、すでに地上から姿を消してしまっていた。
 占領された城の一室で、ただ――リージアは編み続けた。命を削るようにして。
 あと一月で丁度六年。
 残る衣は、わずか十着。


「女……私たちのいう言葉が理解できるか」
「お前を裁判にかけるよう、教会に訴えが出ている。……申し開きがあるなら言ってみろ」 
 リージアは無言で首を横に振った。
「その衣は、実の兄のために編んでいるというのは、本当なのか」
 視線を落とし、彼女は再び編物に没頭しはじめる。
「……お前が、実の兄と関係してたというのは本当なのか」
 何も答えることはできなかった。――何も。
「……連れて行け」
 やがて、冷徹な声がそう告げた。
「教会の牢に入れておけ、裁判にかけ、神の審判を仰がねばなるまい」
 腕を掴まれそうになり、リージアは激しく抗って、いら草の束を抱きかかえた。
 懸命に首を振る。あと少し――本当に、あと少しなのだ。
「この草はどうします……どうやら、この女、とりつかれたように衣を縫い続けているようだが」
「衣の話は、アイル様からお聞きしている。……この草ごと牢へ運んでやれ、これも重要な証拠になる」
 ――アイル……。
 その名が、死んだように眠っていたリージアの心を呼び覚ました。
 アイル。
 フィエルテの妻だった女。ずっと自分を憎んでいた女。いったんは他国へ嫁ぎ、離縁されて生国カスマニアに戻ったと聞いている。
 ――教会に訴え出た者とは、おそらくアイルのことなのだろう。
 リージアは立ち上がり、歩きながらもいら草を編むのを止めなかった。
 怖くはなかった。投獄されることも、処刑されることも。
 ただ――どうして今になって、アイルが自分を訴えることを決意したのか。
 その意味だけが恐ろしかった。







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