その翌日。 リージアは、辺境の国ガーディスに、ラウルの元に輿入れした。 山のように、いら草を積んだ荷車と共に。 ただ、黙々と編物を続けるだけの――口の聞けない新しい奥方に、ガーディスの重臣たちは、たちまちひどい難色を示した。 (あのような女が妃とは、我が王家の風格に係わる。) (あれは、気が触れておるに違いない、毎日毎日、指を血だらけにして、おかしな着物ばかりを縫い続けておる。) ラウルは他国との交渉事で忙しく、滅多に城には戻らなかった。けれど、戻れば必ずリージアの部屋に泊まった。 心通わぬ夫の振る舞いは、ただ冷たく、荒々しく、苦痛しか伴わなかった。いつも、リージアの身体は、彼を拒み、眉根を寄せたまま耐え続けた。 ラウルの肌が触れている間はずっと――、彼女は眼を閉じ、目の前の現実を遮断する。 身体と同様、心も堅く閉ざしたまま、名ばかりの夫に、特別な感情は抱くことは一度もなかった。 一年が過ぎようとしていた。 リージアはいら草で、兄の衣を編み続けた。 花弁のようだった彼女の指は、何度も皮が破れ、新しい皮膚が生まれ、それがまた破れ――そんなことを繰り返す内に、がさがさした老婆のそれになっていた。 いら草の葉は、しなやかな茎にも似て、それでいて細かい棘が無数にある。その棘が指を傷つけ、そして作業を困難なものにしているのだ。 リージアは一日の大半を与えられた自室で過ごし、ひたすら編み棒を動かし続けた。 期限はあと五年。 完成した衣服はいまだ、百着にも満たない。 「……よく続くな」 そんな妻の姿を横目で見ながら、ラウルは醒めた口調で呟いた。 「俺には、お前が全く理解できない……まぁ、せいぜい気が済むまでやるがいい」 結婚してから、彼は殆んど口を聞かず、その態度は一貫して冷たいものだった。けれど。 ――私だって、あなたが判らない。 リージアは心の中で呟いた。 彼は冷たい、けれど、その冷たさの中に、時折滲むような優しさを感じる時がある。 このいら草を用意してくれたのも、激昂していたアイルを説得してくれたのも。 そして、重臣たちの反対を押し切り、自分を妻のまま、この城に留めおいてくれるのも。 全てラウルの一存で決められていることなのだ。 ひどい愛し方しかされない夜。 言葉すら交わさない昼。 けれど彼が長く城を空ける時、彼女のもとには、いつも沢山の衣装や宝石が旅先から届けられる。 寒くなれば、暖かな上着が。 暑くなれば涼しげなドレスが。 それでいて、顔を合わせれば、むっとした顔で黙り込み、口を開けば不機嫌そうな声しか出さない。 リージアには彼が判らなかった。いや――今までも、彼の心が理解できたことなど一度もなかったのだけれど……。 「随分、出来たようだな」 彼らの寝室で、それは情事の後だった。 いつものように、全てが終わった後に寝台から離れ、リージアが編み棒を手にした時。 寝台に半身を預けたままのラウルはそう言うと、肘で頬を支えるようにして、妻を見上げた。 リージアは少し驚いたものの、そのまま無言で編み棒に草を絡めた。 ラウルが――褥の中で話し掛けてくれたのは、結婚してから初めてのことだ。 この国へ来てから、すでに二年が過ぎていた。 いら草で作った衣装は、三百着を超えている。慣れもあってか、最初の頃に比べると、指を傷つける事も少なくなってきていた。 「……お前は、それが全て徒労に終わったら……どうするつもりなんだ」 リージアはそれには応えず、編み棒を動かし続けた。 「死ぬつもりか」 「…………」 男の声は静かだった。 女の指がかすかに震える。 それは、真実を言い当てた言葉だった。リージアにとって、その先の人生は必要ない。 「……フィエルテが人間に戻っても、どうせ妹であるお前とは結ばれない……それでも、お前は構わないのか」 「…………」 「……結ばれず、報われず……どうして、そんなことのために、人生の一番美しい時を棒に振る」 「…………」 ラウルは……何が言いたいのだろう、手元の編み棒は、何時の間にか止まっていた。 「そんなに好きか……あの優男が。俺の方が、何倍もいい男だと思うがな」 リージアは、少し驚いて顔を上げ、初めて正面からラウルを見つめた。 「……お前の顔を、久しぶりに見た気がするな」 ラウルはかすかに苦笑し、綺麗に引き締まった身体を起こした。 リージアは、不思議な胸騒ぎを感じていた。――なんだろう、これは、この感情は。 「おいで」 手が延ばされる。 それに逆らったことは、ここに嫁いで来てから一度もない。 リージアはラウルの傍に歩み寄り、その腕に抱かれるままに引き寄せられた。 「……もう一度、お前を抱く」 少しだけ可笑しかった。 わざわざ宣言するようなことでもないのに。いつだって――乱暴で強引で、私の意思など、おかまいなしだったのに。 いつだって……黙ったまま、強引に。 「どうした」 微笑していたリージアは、はっと唇から笑みを消し、ぎこちなく顔を逸らしていた。 見下ろす男が、かすかなため息をつくのが判る。 「顔も見たくはない、か……」 ――そうじゃない……。 そうじゃなくて。 肩に置かれていた腕が、緩やかに離れていく。 その時になって、リージアは初めて……今夜の彼が、どこかいつもと違うことに気がついた。 少し前まで自分を抱いていた腕も、指も、いつもと違って余裕がなく、抑制を欠いていたことを思い出し――何故か、再び頬が熱くなる。 そんな自分の感情に戸惑い、リージアは視線を下げた。男の眼差しを避け続けた。 「…………」 しばらくリージアを見つめていた男は、やがて嘆息とともに寝台から降り、綺麗な背中に上着を羽織った。 「リージア、俺は、もう一人……別の妻を持つことになった」 そのまま、彼は低く呟いた。 「……お前にとっては、どうでもいいことだろうが……お前にいつまでも子が出来ぬ、重臣どもが煩くてな」 リージアは、うつむいたままでいた。 家臣たちの要求がそれに留まらず、リージアを離縁して国から追い出すように訴えていることを、彼女はよく知っていた。 「……安心しろ、衣ができるまでは、ここで俺が面倒をみてやる」 「…………」 「今夜は、最後のつもりでここへ来た。相手は、同盟国の姫君でな……なかなかやっかいな娘らしい」 リージアが黙っていると、男がわずかに苦笑する気配がした。 「どうでもいい話だったな、……ではな」 そう、確かにどうでもいいことだった。 どうでも――いいことのはずだった。 ・ ・ 冬が過ぎ、春が過ぎる頃、カーディスの城に、美しく華やかな花が届けられた。 他国から来たラウルの新しい妻は、闊達で明るく、まだみずみずさの残る少女のような女だった。 彼女はきれいな頬を薔薇色に染め、ラウルの行くところには、どこへでも着いていきたがる。そしてラウルもまた、彼女の言いなりになっているようだった。 その新しい妻に、リージアは完全に黙殺された。 第二婦人に降格された口の聞けない女の存在は、若さと美貌に恵まれた正妻にとって、興味の範疇外でしかなかったらしい。 夫の訪れがなくなって久しい部屋で、リージアはひたすらいら草の衣服を編み続けた。 夏――いら草の生い茂る時期になると、荷馬車五台分のいら草が彼女のもとへと届けられる。 毎夏の決まり事――それが、ラウルのしてくれたことだと、リージアには判っていた。 ・ ・ 再び冬が来て、そして春が城内の若木の芽をほころばせ始める。 出来上がった衣は、五百枚を超えていた。 それでも――あと三年たらずで、残る五百枚を縫い上げなければならない。 唐草の汁ですっかり痛んでしまった指先は、どす黒く腫れ上がり、貝殻のようだった可憐な爪は、薄碧に変色していた。 リージアは、鏡に映る自分を見つめた。 削げ落ちた頬、落ち窪んだ瞳。力なく垂れた髪。 二十一歳という若さの片鱗さえ、その面差しからは感じることは出来なかった。 ・ ・ ある日の午後、リージアは珍しく庭園に出た。 春の陽射しは穏やかで、柔らかな風が、連日のように春の香りを彼女の部屋にまで運んでくる。 そのせいだろうか、ふと……思いついて、昔のように――ダイノアスの城にいた頃のように、自分の部屋に、花のひとつでも飾ってみたくなったのだ。 気に入った花を追って、庭園の中をさすらっていた時、突然響いてきた華やかな笑い声が、リージアの耳を凍らせた。 それは、ラウルの妻の笑い声だった。 彼女の隣にはラウルが寄り添い、二人は午後の散歩を楽しみながら、笑顔で、何事か話し合っているようだった。 彼女は背後を降り返り、追従している女官から、柔らかそうな包みを抱き取った。幸せに満ち足りた女の笑顔と共に、ラウルの胸元に持っていかれたそれが――彼らの子供なのだと、リージアにもすぐに判った。 ・ ・ 部屋に戻り、摘んできた花を窓辺に飾り、リージアは再び編み棒を手にした。 彼女は編み続けた。ただ――ひたすら、何も考えなくてすむように。 この感情と正面から向き合う勇気がなかったから――。 ・ ・ 五年目の夏が来た。 九百枚目の衣を縫い上げた時、彼女の部屋に積んであったいら草は、一本残らず尽きていた。 彼女は不安な面持ちで、暮れ掛けている空を見上げた。 今年に入ってから、この国に――ガーディアに、何らかの異変が起きつつある。それは、リージアも漠然と察していた。 毎年、夏になると必ず届けられるいら草が届かないことが、その何よりの証だった。 城内の装飾は日増しに色あせ、緊張で誰の顔もぴりぴりと引きつり、女官たちの姿も一人一人消えていく。 華やかな笑い声を振りまいていた正妻の姿も、何時の間にか見えなくなっていた。 戦が起こったのだと――リージアにも、ようやく理解できた。 ガーデイアは小国で、ラウルは、いつも他国の戦に借り出されていた。そこで何か――致命的な行き違いでも起きたのだろう。 いら草は届かなかった。 夏が終わりかけても、彼女のもとには何ひとつ届かなかった。 ・ ・ 手持ち無沙汰の日々を過ごしながら――けれど、この城に嫁いで五年、リージアは初めて安らいだ気持ちになっていた。 残りは百枚。 六年の期限までは、あと一年を切っている。 時間としては、ぎりぎりのところだ。 焦燥はある――けれど、それとは別のところで、確かにリージアはほっとしていた。この、束の間のような休息の日々に。 すっかり人気のなくなった城の中を歩き回っていた彼女は、ギャラリーの片隅、壁に掛けられた一枚の肖像画に目を留めた。 それは――ラウルのものだった。 まだ彼を少年と呼んでもいい頃のものだった。 燃えるような緋色の髪に、切れ長の冷たい瞳。 リージアは、思い出していた。彼と……初めて会った日のことを。 ・ ◆ ◇ ◆ ・ まだダイノアスで、リージアは、十五歳になったばかりだった。 兄だけを見つめ、平穏で幸せな時の流れが、彼女の日常の全てだった頃――。 その兄の――フィエルテの結婚が正式に決まり、婚約式のためにアイルと共にやってきたのが、ラウルだったのだ。 リージアは、父親の命ずるままに、ラウルの相手をつとめることになった。 彼は二十歳になったばかりだというが、その眼差しにも物腰にも、若さというものはひとつも感じられなかった。無口でつまらない人、そして……怖い眼をした人。 それがリージアの感じた彼の印象の全てだった。 何を話しても、何を説明しても、むっとした顔で黙りこくっている冷たい横顔。 リージアはやがて疲れ、そして話の糸口を失った。 「俺は全てを持っていると、周りのものによく言われる、……欲しいものを全て手にした、幸運な男だと」 気まずいような沈黙の後、いきなり、そう話し始めたのはラウルだった。 リージアは、少し驚いて、その横顔を伺いみた。 「けれど、俺にも、どうしても手に入らないものがある、……それは、高貴な血というものだ」 「…………」 ガーディアの若き王位継承者の彼が、もとを正せば大国カスマニア王の愛妾の子供であることは、誰一人知らぬ者がいないほどの、公然の事実だった。 ラウルは、その横顔を動かしもせずに、さらりと言った。 「俺と結婚する気はないか、ダイノアスの姫よ」 リージアは……唖然としたまま、言葉を失ってしまっていた。 「お前のような女こそが、俺に欠けていたものだとようやく判った。……俺では夫に不服だろうか」 しばらく……しばらくその意味を考えて、リージアは、握り締めた拳が震えるほどの、生まれてはじめての、激しい怒りを感じていた。 「二度と私に、そんな口を聞かないで!」 震える声で、リージアは叫んだ。 「あなたのような男の妻になるくらいなら、死んだ方がましだわ」 その激しい拒絶に、最初は戸惑ったラウルの目にも、静かな怒りが浮かび上がっていくのが判った。 「それほどに自分の生まれが誇りか、高慢な姫よ」 彼は、苛立った声でそう言った。 切れ長の怜悧な眼が、射抜くようにリージアを見つめた。 「いつか、お前を俺のものにしてみせる、……覚えていろ、必ずだ」 それは刻印のように、リージアの脳裏深くに刻まれた――まるで、血で綴られた予言のように。 だから、リージアは彼が怖かった。 彼が――ずっと、怖かった。 ・ ◆ ◇ ◆ |
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