薄暗い地下牢で、リージアはただ、編み棒を動かし続けた。
 極寒だった。吐く息は白く濁り、指はかじかみ、切れて血を滲ませた。
 それでもリージアはやめなかった。
 凍りついた指を動かし、ただ、衣を編み続けた。あと三着、あと――二着。
「リージア、お前、本当に魔女になってしまったのね」
 気温よりもさら冷たい声がした。
 リージアは、その懐かしい響きに顔を上げた。
「……まぁ、恐ろしい顔、まるで醜く老いた魔女のようよ。月の雫のようにお美しかったリージア様」
 鉄格子の向こう側、暖かな衣装に身を包み、嫣然と自分を見下ろしているのは、忘れもしない、もと義理姉のアイルだった。
 長かった黒髪は短く切られ、耳のあたりで柔らかい曲線を描いている。
「いい知らせを伝えに来たのよ、私の愛しい妹、リージア。あなたの処刑が、三日後に決ったわ」
 三日後。
 リージアはさすがに驚愕で息を詰まらせた。
 それは、六年の最後の一日。
「約束どおり六年待ったわ……リージア、六年よ」
 アイルは、冷たい眼の色になって冷笑した。
「あなたは、フィエルテだけじゃない、私の弟、ラウルまで殺したのよ。私はあなたを許せない、なにがあっても、あなただけは許さない」
 リージアはうなだれた。反論など何もない。全てはアイルの言う通りなのだから。
「最後の衣をフィエルテに掛けるがいいわ、掛けた時点で、あなたは即座に絞首刑よ。実の兄を愛した、汚らわしい近親愛の罪で」
 アイルの眼には、今は憎悪の色しかなかった。
「そして、フィエルテも……もし、彼が衣の力で人に戻ったのなら、フィエルテもまた、近親愛の罪で、その場で処刑されるでしょうよ」
「…………っ」
「衣を掛けなくても、教会の彼らは白鳥のままのフィエルテを捕らえて殺すわよ。あんたたち兄妹が穢れた関係だということは、もう裁判で認められてしまったんだもの。――あなたはね、リージア、何がなんでも白鳥のフィエルテに衣をかけて、彼の潔白を証明しなくてはならないのよ」
 そんな――。
 初めて、驚愕で、リージアは震え出した。
「衣の数を誤魔化そうったって駄目よ、口を聞くことも許さない。フィエルテを助ける方法はただ一つ、なにがなんでも千枚仕上げて、彼の潔白を証明することだけなんだから」
「…………」
「なんにせよ、衣を掛けたあなたは、死を逃れる事はできないけどね」
「…………」
 その意味が持つものの衝撃で、目の前が暗くなった。
 そんな――そんな、そんなこと。
 この人は――アイルは、フィエルテを愛していたのではなかったのか。
「……リージア、これが私の、あんたたち兄妹への復讐よ」
 突き放すようにそう言って、アイルは哄笑とともに背中を見せた。
「あんたたちが、最初から愛し合っていたのは知っていたわ、……私を莫迦にして、許せない。私が彼のために衣を編んでいた三日間、彼が――私でなくあなたの部屋に行っていたのが、それが全てよ。私は、フィエルテを憎んでいるのよ――ええ、殺してやりたいほどね」


 月は、厚い雲に覆われ、周囲はほとんど闇に包まれていた。
「時間だ」
 リージアは、馬車の中から引き下ろされた。
 彼女は、最後の一枚、その最後の袖の部分を、ひたすら編み続けていた。
 ここが――彼女の生国、ダイノアスとの国境で、彼女の目の前に広がる闇の塊が、――あの忌わしいフォーレーンの森だということも、今の彼女にとってはどうでもいいことだった。
 ただ、とりつかれたように編み続けた。
 この六年の歳月を。この六年に失ったもの全てを、その一枚の一目に込めて。
 壇上の上にそびえる柱には、首を括るためのロープが掛けられている。
 リージアは背を押されるままに壇上に上がり、そのロープの真下に立った。
 手は――まだ、忙しなく編み棒を手繰っている。
「本当に……フィエルテ様は、来られるのでしょうか」
 囁くような声が、立会人席から響いてくる。
「来るわ、あの人は、絶対に来る、この月が雲から出たら」
 自信に満ちた声でそう言い返したのはアイルだった。
「けれど……むざむざ、死ぬと判っているのに」
「それでも来るのよ、あの人は、誰よりも妹を愛しているから」
 月が、雲間から姿を現したのはその時だった。
 月光――その眩い光を背負い、大きな翼が影を作る。
「捕らえろ!」
「神に背くものだ、逃がしてはならぬ」
 白鳥は羽ばたく、その羽が閃く度に、赤い雫が煌いてはじけた。
 白鳥は、ひどい傷を負っていたのだった。
 羽ばたきと共に、美しい羽が抜け落ち、鮮血が純白の衣を汚す。
 周辺に待機していた教会の騎士たちは、石礫を一斉に投げた。
 それは、優雅な首にあたり、羽を折り――やがて、力尽きた白い鳥は、ゆるやかに地面に落下する。
 最後の――その一目が、編み込まれたのはその瞬間だった。
 リージアは編み棒を投げ棄てた。
「ラウル、許して!」
 六年という歳月の果て、彼女の唇から零れた言葉は、目の前に横たわる兄の名ではなかった。
「あなたを……愛していたの」
 祈るような想いを込めて、彼女は衣を白鳥の背に投げた。
 ラウルを愛していると知りつつも――それでも、救いたかったこの兄が、……この刹那、元の人に戻って欲しいのか、それとも、白鳥のままでいて欲しいのか――。
 リージアには判らなかった。本当に判らなかった。
 ――お兄様……。
 人に戻れば、それは兄が、自分を愛してくれていたことになる、妹としてではなく、一人の女として。
 そして、次の瞬間、二人は殺されてしまうのだ。
 ――お兄様……、お願い。
 リージアは祈った。白鳥の身体に、なんの変化も起こらないことを。
 兄が、自分を愛してはいないことを。
「……おお、これは……」
 観衆の中からどよめきが響く。
 瀕死の白鳥に掛けられた衣に、一筋の月光が降りかかる。まるで天からの祝福のように。
 それは、次第に大きな光の輪に転じ、そして――鳥だったものを包み込んだ。
 白い羽毛はみるみるうちに肌色の皮膚に変化した。皮膚は腕を形作り、長い指が現れる。
「神もご照覧、呪いは今解かれたわ」
 勝ち誇ったようにアイルは叫んだ。
「これが証よ、さぁ、ぐずぐずしないで、さっさとあの穢れた女を処刑するのよ!」
 リージアの腕が、背後から騎士に掴まれる。
「待って……」
 リージアは呟いた。
 目の前で起きている事が――信じられなかった。
「お願い、もう少しだけ待って、」
 伸びきった形良い腕、広い肩幅、きれいな背中。
 人に変化した白鳥の裸体は、それは――彼女の眼には、兄の姿に見えなかった。それよりも――むしろ、忘れようとしても忘れられない、一人の男の身体に見えた。
「……ウ、ル……」
 腕を突き、そしてゆっくりと起こされた半身、その額に零れる緋色の髪を見た時、リージアは騎士たちの腕を振り解き、駆け出していた。
「ラウル、……ラウル!」
 戸惑ったような眼が、駆け寄ってきた女を見下ろす。
「……リー……ジア……?」
「ラウル……!」
 この奇跡の理由は判らない。
 けれど、リージアは彼を抱いた。
 この六年の歳月とともに、永久に失ったと思っていた愛する男を抱き締めた。
 彼は生きていたのだ――。フォーレーンの魔女のもとで、兄と同じように、その姿を白鳥に変化させられて。
「お前……、どうして、……俺が……」
 ラウルはまだ戸惑っている。
 リージアは無言で、その胸に頬を預けた。
 直に触れる肌の温み、彼の香り――それだけでいい、もう他には何もいらない。
「そんな……莫迦な……」
 呆けたようなアイルの呟きが、風に流れる。
「これは……どうやら我々は、大変な誤解をしていたようですな」
 教会の男たちは、感嘆の声を上げた。
「大変な奇跡だ……これは、……なんと素晴らしい……」

 ――リージア……。

 天の高みから、声がした。
 リージアは、弾かれたように顔を上げた。
 それは――兄の声だった。かつて誰よりも愛し、リージアの全てだった、フィエルテのものだった。
 月光を背に、夜を駆ける美しい鳥が、大きな羽ばたきを繰り返している。
 彼の背後には、無数の鳥たちが旋回し、祝福のようなさえずりを続けている。

 ――お前の六年は、無駄ではなかったのだよ……どれだけ辛かったことだろう……よく頑張った……私の愛しい妹よ。

 この歳月で、兄は魔力を身につけたのか――その声は心の底に直接響くようだった。

「フィエルテ、俺は、お前の言う通り、お前の身代わりとしてここへ来た、お前が……リージアを助けるにはそうするしかないと言ったからだ」
 天を仰ぎ、そう叫んだのはラウルだった。
「でも判らない、……どうして、俺が、……元の身体に戻れるんだ?」

 ――それは、リージアに聞くといい。

 フィエルテの声は優しかった。

 ――リージアがこの六年、何を想い、誰を想ってその衣を編み続けたか……本人に聞いてみればいい。

「お兄様……」
 リージアは呟いた。涙で視界が曇っていく。

 六年の最初の夜――リージアはラウルと結ばれた。
 あの憎しみと悲しみの夜。
 あまりに残酷な方法で奪われた身体。けれどリージアの心もまた、その刹那、彼に奪われていたのだった。
 いや、それよりもずっと以前から、初めて彼に出会い、求婚されたその時から。
 リージアは衣を編み続けた。
 兄のために、無論そう思っていた。
 けれど――ラウルへの伝えきれないもどかしい感情、怒り、憎しみ……その想いの全てを、彼女はそのひと編みひと編みに込めたのだ。
 いつしか――編み続けることそのものが、彼への愛に、それだけになっていたことにも気づかずに。
 
 ――私は、この空で生きていく……美しい仲間達と共に。

 最後の旋回をし、白鳥は大きく舞い上がった。
「お兄様、」
 リージアははっとして顔を上げる。

 ――リージア、これは私が受けるべき罰なのだ、……お前だけは、その意味を判っているね。

「…………」

 ――どこにいてもお前を見守っているよ……リージア……幸せにおなり……。
・・
「お兄様……!」
 リージアは叫んだ。
 抑えた唇から嗚咽が零れ、溜まらず彼女は号泣した。
 六年の歳月が、彼女にも真実を理解させていた。
 自分の兄への想いが、少女らしい憧れにすぎなかったことと――。
 そして、
 兄が、本当に、一人の女として、自分を愛してくれていたことに。

「お兄様……許して……」

 白鳥の王子は、月光の輪の中に姿を消した。
 その気高い残像だけを闇に残して。


                 ◆
                 ◇
                 ◆


 差し込む月光だけが頼りの、美しい、幻想的な夜の森。
 この六年間、すれ違い続けた――いや、すれ違っていることにすら気づかなかった恋人たちは、互いの手の温度を確かめながら、歩いていた。
「あなたを、最初から好きだったわ……」
 リージアは、苦しい感情をもてあましながら呟いた。
 伝えきれないもどかしさは、言葉では追いつかない。
「信じられないな」
 ラウルは、苦笑を滲ませた眼差しで、寄り添う妻を優しく見下ろす。
 彼は、教会軍の騎士服を身につけて、長く伸びた髪は、その額を覆っていた。
 天の光に包まれた時、彼の傷もまた、完治していた。
「お前は最初から冷たかった、汚いものでも観るような目で俺を見ていた」
「あなたがいけないんだわ」
 その声で、見下ろされる眼差しだけで――動悸が止まらなくなるような気がする。リージアは頬を赤く染めて、男から眼を逸らした。
「あなたが、あんなひどいことを言うから」
「ひどいこと……?」
「俺に足りないものは、高貴な血だと言ったじゃない、……あんな失礼なプロポーズもなかったわ」
「…………」
 一瞬、呆けたような沈黙があり、男は端正な横顔を破顔させて、笑い出した。
「ひ、ひどい、なによ、その反応は」
「莫迦だな、……いや、俺のことだ、お前じゃない」
 振り上げた拳は絡め取られ、そのまま胸元に引き寄せられる。
 暖かな腕とそして胸から伝わる確かな鼓動。
 リージアは眼を閉じた。もう、離れたくない、この人から。
「……許せ、他に言い方を知らなかった」
「……私も……」
 多分――最初から彼に惹かれていた。だから、求婚されたあの時に、あんなにも激しい怒りを感じたのだろう。
 自分の想いを侮辱されたような気がしたのだ。
 そして、怖かった。
 兄への――宝物のような大切な想いを、この氷の眼を持つ男に、壊されてしまいそうな気がしたから。
 それは、今なら判る――未知の感情への恐怖、恋への畏怖にほかならなかった。
 指に顎をすくわれ、優しいキスが降りてくる。
 唇はすぐに離れ、そのまま、深く抱き締められた。
「俺は……」
 ラウルは、少し苦しそうに呟いた。
「もう、何も持ってはいない、お前にやれるものは、この身体だけだが、それでもいいか」
「いやよ」
 リージアは即座に顔を上げた。
「心まで全部私のものだと言って、ラウル」
 戸惑った瞳に見下ろされる。リージアは、その頬に唇を寄せて囁いた。
「私のものは、全てあなたのものだから……」
「リージア……」
「愛しているわ……」



 童話の中の水晶の城に、月の雫のような姫がいた。
 姫の名は、リージア。
 月に護られ星に愛された美しい娘。



 彼女は愛する人を抱き締めた。
 ようやく掴まえた永遠を――抱き締めた。




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