リージアは、再びカスマニアの城に戻された。
 塔の一室に軟禁され、外に出ることも許されなくなる。そして、婚礼の準備だけが、着々と進められていく。
 あの夜、突然現れたラウルは、別の用事で、たまたま生まれ故郷を訪れていただけのようだった。彼は翌日には、ガーディスに帰還し、以来彼がカスマニアに戻ってくることはなかった。
 いずれにせよ、結婚の日は近づいている。
 逃げ道を塞がれたリージアだったが、命を絶つ術ならいくらでもあった。
 それは甘美な誘惑だった。けれど――。
 


 夜が更ける。月が明るく、リージアのいる塔を照らし出す。
 リージアは窓を開け放ち、一羽の白鳥が飛来してくるのをじっと待った。月のある晩は――毎晩のように。
 そして、いつも、その願いは叶えられる。
 美しい天の鳥は優雅な翼を広げ、夜空を縫うように舞い降りてくる。
 窓辺で白鳥は翼を閉じる。そして、リージアに抱かれるままになってくれる。
「お兄様……」
 妹が決して命を断たないように――それを確認するために、兄は毎夜、こうして来てくれるのだ。
 嬉しかった。そしてそのことが、リージアを死への渇望から救っていた。
 夜が明ける。その少し前になると、白鳥は未練のように何度か羽ばたきを繰り返し、そして薄闇の向こうへ飛び去っていく。
 魔女の元へと帰っていく。
「……お兄様……」
 その度にリージアは泣いた。顔を覆い、唇を震わせた。
 何度味わっても、この瞬間の悲しみだけは、耐えられない。
 何もできないのが悔しかった。
 妹であることが――悲しかった。


 そして昼間。
 リージアが塔から地上を見下ろしていると、城門から、毎日にように、頻繁に荷車が運び入れられているのが見て取れた。
 山積みになった荷台。その荷車が通り過ぎた後には、必ず緑の葉のようなものが風にあおられ、リージアのいる部屋にまで運ばれてくる。
 ――いら草……?
 おそらくアイルが、魔女の言ういら草を国中から集めさせているに違いない。
 リージアは、窓枠に絡まり、風にあおられているそれを、手のひらで掬いとった。
 初めて見る……奇妙な形をした植物。
 二の腕ほどの長さを持ち、糸を束ねたような繊細な茎と葉が、蔦の蔓のように複雑に絡まりあっている。
「……っ」
 指で強く触れた途端、指先に細かな棘が突き刺さった。
 滑らかに見える表皮とは裏腹に、葉といわず、茎といわず、その表面は針先のような棘で覆われているのだ。
 ――こんなもので、アイルは……?
 編んでいるというのだろうか?フィエルテの上着を。
 あの日から十日あまりが過ぎている。
 アイルは――あれから一度も顔を見せない。
 ――衣が出来るのを見届けるまでは……。
 リージアは哀しい気持ちで、黒ずむほど蒼い空を見つめた。
 それを見届けるまでは、私は……死ねない……。


 ガーディアへ嫁ぐ日が翌日に迫っていた。
 豪華な婚礼の衣装も、輿入れ道具も、リージアにはただ、死出への装飾品にしか見えなかった。
 兄以外の男にこの身を捧げる――。それは、死に等しい絶望でしかなかったから。
 その夜、リージアは窓を大きく開け放って、兄がやってくるのを待った。
 明日、おそらく、ラウルはこの国にやってくる。彼の花嫁を迎えに来るために。
 ガーディアの城は、このカスマニアより、さらにダイノアスから離れた辺境の土地にある。月が出ている間しか、ダイノアスを離れられない兄と会うのは――おそらく、今宵が最後になるだろう。
「お兄様……」
 闇に浮かぶ仄白い光のように、その夜も兄はやってきた。
 優雅に翼を羽ばたかせ、懐かしいダイノアスの空気をまとい、妹の待つ窓辺と舞い降りて来る。
「お兄様……私……明日には……」
 言いさして、リージアの目に涙が溢れた。
 白鳥はゆっくりと首を傾ける。
 その表情と仕草で、リージアには判った。――幸せにおなり、兄の目がそう訴えていることを。
 違うのに。
 喉元まで溢れた思いを、リージアは飲み込んだ。
 好きなのに、私が好きなのは――お兄様だけなのに。
 口づけさえできない冷たい嘴に唇で触れ、リージアは目を閉じた。
 白鳥はみじろぎひとつしないまま、その接吻を受けている。
 ――愛しています……お兄様。あなただけ愛し続けると誓います……。
 リージアは心で誓い、そして祈った。
 この一瞬が――永遠になりますようにと。
 部屋の扉が荒々しく開けられたのは、その時だった。


「……フィエルテ……あなたという人は……」
 蒼ざめた顔で、そこに立っていたのはアイルだった。
 羽ばたく白鳥は、飛び込んで来た侍従たちに取り押さえられた。もがく身体を押さえつけられ、千切れた羽が空を舞う。
「お兄様っ……やめて、やめさせて、お願い、アイル」
 アイルは無言のままだった。冷たく凍りついた眼差しは、じっとフィエルテだったものを見つめている。
 やがて、兄の身体の上に、重たい鉄の籠が被せられた。
 哀れな美しい野鳥は、鉄格子に身体をぶつけ、苦しげな羽ばたきを繰り返す。
「ほう、婚礼前の花嫁に、……とんだ密会者がいたものだな」
 その声に、リージアは全身を凍りつかせて、ぎこちなく振り返った。
 ――ラウル……。
 長身痩躯の男は、いつもの甲冑姿ではなく、優雅な王の衣装に身を包んでいる。
 男は扉に背をあずけ、感情を黙殺したような冷たい目で、もがき続ける白鳥を見つめていた。
「これを見なさい、フィエルテ!」
 突然声を張り上げたのは、アイルだった。
 女は、己が両手のひらを、檻の中に閉じ込められた鳥に向かって差し出した。
 その全ての指に巻かれた真っ白な包帯。アイルはそれに唇をあて、包帯を解いて振り払う。
 痛々しいほど傷だらけになった指、いたるところにできた真っ赤な切り傷。
 リージアは思わず目をそむけた。きっと――兄も、そうしていたはずだった。
「私はずっと、あなたのためにいら草で編物を続けていたのに……それなのにあなたは、こうして毎晩、リージアの所へ通っていたのね」
 憎しみに満ちた声でそう言い、アイルは義妹を振り返った。
「浅ましい娘……実の兄を、いやらしい目で見てばかりいて!」
 リージアは震えながら……それでも、何故アイルがここにいて、こうして口を開いているのか、そのことを考えていた。
 つまり――アイルは、兄を救うことを放棄したのだ。そこにどんな理由や葛藤があったとしても――結局はそういうことなのだ。
 アイルはつかつかとリージアの傍に歩み寄り、ドレスの胸元を掴み上げた。
「なんなの、その目は。……あんたに、私の何が判るって言うのよ」
 声はどすぐろい憎悪に満ちていた。
「いい?私はね、お父様の命令で、別の国の王の元に嫁ぐことに決ったのよ。私だって……そんなことでもなければ、諦めたりはしなかったわよ」
 ――どうだかな。
 背後で低く呟いたのは、ラウルだったが、それには構わずアイルは続けた。
「リージア、あんたを近親愛の罪で、教会に訴えてやるわ。あんたは絞首刑か火あぶりよ。思い知ればいい、この薄汚い淫乱女」
「……訴えればいいわ、否定しない、でも」
 リージアはアイルを見つめ、震える声を抑えながらそう言った。
「……でも、六年、六年だけ、待ってちょうだい」
「なん……ですって」
「その後であれば、私を教会に訴えるなり、殺すなり……好きにすればいい。……気の済むようにしていいから」
 その意味をすぐに悟ったのか、蒼白だったアイルの顔は真っ赤になった。
「あなた……自分が何を言ってるか、本当に判ってるの?」
 リージアは無言でうなずいた。
「あなたの汚らわしい思いに、私の夫まで巻き込むつもりなの?できやしないわ、無駄よ、不可能よ、六年頑張ったって、あなたの編んだ服なんかに、なんの効き目もありゃしないわ」
 リージアは首を振る。無言で、ただ、首を振る。
 そこに――かすかな、夢のような可能性がある限り、リージアはやり遂げるつもりだった。どうせ死がその先に待っているのなら――最後のこの命を、兄のために捧げたい。
「……判ってるの……もし、」
 アイルは、憎憎しげな目を、囚われの白鳥に向けた。
「もし、あなたの編んだ衣で、フィエルテが元に戻ったとしたら、あんたたちは……兄妹で愛し合ってたって、堂々と宣言したも同じなのよ?」
 リージアは何も言わなかった。言えなかった。
 彼女の六年の最初の一日は、もう始まっていたのだから。
「……なんて……女……」
 アイルはうめいて、リージアを突き飛ばした。
「教会へ行くわ、ラウル、送って頂戴、明日にでもこの女を処刑してやる」
「いや……」
 それまで黙っていたラウルは、冷たい眼差しを静かに上げた。
「姉上、リージアは俺がもらう約束だ。……俺に任せろ、女の決意など、すぐに俺が変えさせてみせる」


 アイルをはじめ、他の者を全て退室させ、ラウルは初めてリージアを見つめた。
 冷ややかな切れ長の眼。一欠片の感情も読みされない眼差し。
 リージアは後ずさりながら、兄の元へ近寄った。
 早く――この籠から、逃がしてやらなければならない。夜が明ける前までに、早く。
「お前の力では無理だ、花嫁殿」
 ラウルは、どこか怒ったような声でそう言った。
 リージアは、急いた手で、籠の取っ手を掴み上げる。重たい鉄籠は、確かに女一人の腕ではびくともしない。
 白鳥は苦しげな鳴き声を上げ、激しい羽ばたきを繰り返した。
 彼は、この後妹の身に何が起きるか、哀しい直感で理解していたのだった。


「一言でいい、口を聞けば許してやろう」
 両腕を掴まれ、そのまま壁に押しつけられる。
 大きな手。逞しい腕に、広い胸。身体を近づけられるだけで、圧倒されるほど迫力がある。
 リージアは、燃える目で、目の前の男を睨みつけた。
「フィエルテのことは忘れると――莫迦な賭けなどやらないと、言ってみろ、お前のその唇で」
 リージアは首を振った。
「………」
 男が微かに舌打をする。強く腕をねじられ、痛みで声が出そうになる。
「言え、リージア」
 リージアは、顔を背け続けていた。
「止めて欲しければ、自分の口でそう言ってみろ」
 ――助けて、お兄様……!
 叫びたかった。羽ばたきが聞こえる。悔しさと悲しさで、涙が溢れる。
「兄のことは、忘れると言え」
 怒ったような口調で、男は囁く。
「お前をこのまま、抱いてもいいのか」
 嫌悪と恐怖で身が竦む――それでも、リージアは目を閉じて、視野を塞ぐことで、この屈辱にじっと耐えた。耐え続けた。


 はばたきが聞こえる……。
 頑なに目を閉じるリージアの耳には、その音は、兄が流す血の涙のように思えた。
「ばかな女だ」
 苛立ったように、ラウルが呟いた。
「一言口を開けば、許してやったものを」
 顔だけを背けたリージアの目から涙が零れた。
 それは、あまりにも無残な初夜だった。




 夜明けには、まだ少しの間があった。
 リージアは痛む身体を無理に引き起こし、衣服をまとって、兄の所まで歩み寄った。
 ラウルがそうしてくれたのか、鳥籠の蓋は、床に投げ捨てられていた。
 白い羽を血に染めた白鳥は、テーブルの上で翼を閉じて、首をうなだれて座っている。
「…………」
「…………」
 兄妹に、もはや人の言葉を喋ることは許されなかった。
 リージアは無言で白鳥の頬に触れ、嘴に触れ、そして、ゆっくりと窓を開け放った。
 ――お行き……。
 眼差しだけで、そう伝える。
 傷ついた翼を広げ、白鳥は哀しげな鳴き声を上げた。
 ――六年、それまではどうか、生きていて……お兄様。
 天空で翼を広げ、兄の目が、振り返る。
 その目もまた、こう言っているように見えた。
 ――生きるんだ……リージア、何があっても。
 そして、兄と妹は、最後に絡んだ眼差しを離した。









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