「リージア、あなたは、ラウルの所へ行ったらどう?」
 疾走する馬車の中、どこか冷たく言ったのはアイルだった。
「ダイノアスで生まれたフォーレーンの魔女は、国境を越えれば魔力を失うと聞いているわ。フィエルテは私の国、カスマニアへ連れて行く、あなたはラウルのところへ行くべきよ」
 リージアは何も言えなかった。
 大きな瞳に涙を滲ませ、そして、黙って首を横に振る。
「……いや……、あの人のところへ行くのだけは、……どうしてもいや」
 ラウル。
 隣国ガーディアで、即位したばかりの若き王。
 そして、ここにいるアイルの、一つ年下のの母違いの弟。
 アイルと共にカスマニア国に生まれたものの、幼くしてガーディアに養子に出され、そこで王位を継いだのだ。
 燃え立つような緋色の髪と、氷の眼差しを持った男は、かつて一度リージアに求婚し、リージアはそれを激しく拒んだ。
 彼の胸底にあるものが、愛ではなく――もっと卑しい野心だと知っていたから。
 いや、誰であっても、それがどんな理由でも、リージアは拒んだ。それが兄でない限りは。
「仮にも私の弟に、ひどい言いようね、リージア」
 アイルの口調には毒がある。それは今に始ったことではないのだけれど。
「言っておきますけどね、ラウルはあなたにもったいないくらいの人よ、彼がどれだけたくさんの求婚を蹴っているか、あなたも聞いたことがあるでしょう?」
 知っている。
 冷ややかな美貌と、豪胆で男らしい性格を持つラウルは、たくさんの女性たちの心をつかんで離さない。
 けれど、それは、リージアにとっては何の意味もないことだ。
「アイル、リージアは子供だ、結婚はまだ早い」
 何も言えない妹に代わり、口を差し込んでくれたのはフィエルテだった。
「あら、リージアはもう立派な大人よ。私だって、リージアと大して年が変わらないうちから、あなたと婚約していたわ」
 アイルはにっこりと優しげに笑う。
 兄だけに向けられるその笑顔が、今までリージアに向けられたことは一度もない。
「もうすぐ国境ね。この夜が明ければもう大丈夫、魔女の妖力は、夜明けになると使えなくなるんですもの」
 それは、アイルの言う通りだった。
 この夜の内にダイノアスから脱出できれば、もうリージアとフィエルテが、魔女に怯えることはない。
 永久に――。二度と、ダイノアスの地を踏まない限りは。
「ひとまずカスマニアに三人で行きましょう。ラウルには、あらためてリージアを迎えに来てもらうから」
 それだけ言うと、アイルはフィエルテの肩に寄り添い、そのまま目を閉じ、口をつぐんだ。
 もう、この話はこれでおしまい、とでも言うように。
 兄と妹は顔を見合わせた。
 故郷を失い、帰る場所のない二人。
 温室で育てられ、野で生きる術を持たない二人。
「リージア、安心しておいで、私が絶対に、ガーディアへは行かせたりはしないから」
 やがてアイルが寝息をたて始めると、フィエルテは低い声で囁いた。
「お兄様、……でも」
 兄は、この先、アイルの生国、カスマニアを頼って生きていくしかないのではないか。
 けれどフィエルテは、静かな意思をこめた眼差しで、妹をじっと見つめた。
 大きな手が、リージアの華奢な指を包み込む。
「絶対だ、……リージア」
 ――お兄様……。
 時々。
 この兄の目に、期待してしまう自分がいる。
 抱き締めてくれるような――口づけてくれるような――そんな目で、自分を見ているように、思えてしまうことがある。
 悲しい錯覚。虚しい希望。
 浅ましい――夢。
 厳格な神の教えが支配するこの世界で、肉親を愛することは、死罰を科される重罪なのだから。
 死ぬまで――いや、死んでも、リージアは、この想いを兄に打ち明けるつもりはない。
 稲妻のような轟音と共に、馬車が闇に飲み込まれたのは、その時だった。



 ――バイロンの子供たち、お前たちを、このまま逃がすわけにはいかないよ……。



 闇を震わす、魔女の声。
 従者に見捨てられ、逃げるように馬車から降りた美しい兄妹と、そして兄嫁。
 三人は震えながら、闇の中に取り残される。
「国境はすぐそこなのに」
 アイルが悔しそうに呟いた。
「もう直、夜が明けるのに、あと少しで、永久に魔女から逃げることができたのに」
 リージアは振り返った。
 兄を、誰よりも、己が命よりも愛しい人を。
「……リージア……?」
 心の結びつきならば、誰よりも強い兄の目が、妹の決意を知って、不審気な曇りを帯びる。


「魔女よ、フォーレーンの魔女よ」
 リージアは叫び、闇の果てを静かに見つめた。
「私をお前に捧げます、どうか、兄と、兄の妻だけはお見逃しください」
「いけない、リージア」
「いいえ、お兄様とアイルは、今のうちに国境を越えるのよ」
 宝石の瞳に焔をたたえ、リージアはきっぱりとした口調で言った。
「夜明けまであと少し。夜が明ければ、魔女の妖力は消えてしまうわ。お願い、お兄様、アイルを連れてお逃げになられて」
「行きましょう、あなた」
 アイルが、必死の形相でフィエルテの腕にすがる。
「しかし」
「行って、お兄様!」

――美しい月の娘よ、お前の心の底にあるものが、眼の見えぬ私には判る、……私は、お前を憐れに思おう。

 リージアは息を呑んだ。
 魔女の声が、その気配が、リージアの身体を包み込む。

――お前に相応しい呪いをかけてやろう、月の娘よ、月光のように可憐な姫よ。
・・
 増殖した闇から放たれる薄紫の光の束。
 矢のように放されたそれは、あやまたずリージアの胸元に突き刺さろうとして――。
「駄目だ、リージア!」

闇が解ける。
 朝日の輝きが視界を射る。
・・
「いやよ、フィエルテ!」
 アイルの悲鳴―――。
 ――なに……?
 被さる影に突き飛ばされて、リージアは地面に横倒れになった。
・・
「あなたーーっ フィエルテ! ああ、そんな……っ」
 アイルの声。
 ――お兄様……?
 リージアは顔を上げた。
 彼女の視界で――光の輪に包まれた美しい兄の姿が、ゆっくりと、まるで幻想のように、優雅な白い羽に覆われていく。
「お……」
 人としての形骸をとどめる最後の刹那、兄の目が捕らえたのは確かに自分のような気がした。


 暁の空、哀しげな鳴き声を残し、美しい一羽の白鳥は、天高く羽ばたいていく。
 妹にかけられるはずだった、その呪いをわが身に受けて、気高い王子はそうやって地上から姿を消した。


「お兄様ーーっっ」
 リージアは絶望の声をあげ、そのまま意識を失った。








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