リージアは、カスマニアの城の一室で目を覚ました。
 眩しいほどの午後の陽射しが、部屋の中に満ちていた。
 哀しい――余りにも哀しすぎる現実が、目覚めと共にリージアを包み込む。
「お兄様……」
 涙が溢れた。
 ――お兄様……。
 もう――もう二度と、あの優しい笑顔に会うことができないのだろうか。



「どうしてあなたが無事でいるの?フィエルテはもういないのに、どうしてあなたが」
 最初に耳にしたのは、魔女のそれよりももっと恐ろしい呪詛の言葉。
 部屋に入ってくるなり、アイルは、蒼ざめた顔で歩み寄ってきた。
「あなたが、呪いを受けるべきだったのに!」
 ベッドに半身を起こしたままだったリージアは、義姉に胸元を掴まれて、そのまま枕に押し付けられる。
「フィエルテを返して、あの人を私に返して!」
 つりあがった眦、滴る涙が、リージアの頬を濡らす。
「……方法は、本当にないの……?」
 姉の腕に押さえつけられたまま、リージアは、震える唇で呟いた。
「お兄様の呪いを解く方法は、本当にどこにもないの……?」
「方法ですって?」
 女の顔が、憎憎しげに歪んだ。
「そんなこと、あなたにいちいち心配してもらうまでもないわよ!」
 激しい口調でそう言うと、アイルはリージアの身体を突き放した。
「あなたは、ラウルの妻になるのよ、リージア。嫌とは言わせないわ、もう、あなたには、それを拒否することはできないんだから……憐れな一人ぼっちのお姫様、一人では生きていけないお姫様」 
 リージアは震える目で義姉を見上げた。
 それは――死より残酷な運命の決定。
「あなたが死ぬほど嫌っているラウルが、きっと毎晩あなたを抱くわ。……せいぜい可愛がってもらうのね。フィエルテは私が絶対に救ってみせる、あなたはね、もう二度とあの人に係わらないで!」


 その夜、リージアは城を抜け出した。
 細い足と貝殻のような爪を血に濡らし、彼女は一心不乱に森を抜け、夜を駆けた。
 ダイノアスの土地を踏みさえすれば、必ずフォーレーンの魔女は姿を見せる。兄を襲った運命の光を、リージアは自分も同じように受けたかった。
 兄と同じ、真っ白な鳥になり、空の高みで生きる事ができたら――!
 それは、目もくらむような幸福に思えた。
 来た道を振り返りもせずに歩き続けるリージアは気づかなかった。
 彼女の後方を――闇を滲ますほど白く輝く、一羽の白鳥が追飛していることに。


「こんな時間に何処へ行く、べっぴんの娘さん」
「どうした、こいつは、とんだ上玉だ」
「おい……返事をしないか、気が触れてんじゃないのか、この娘」
 森の中で、リージアを取り囲んだのは、盗賊か、それとも脱隊した騎士たちか――リージアは、彼らが夜営していた場所に行きあってしまったのだった。
 薄汚れた荒くれ者たちに囲まれて、彼女は退路を失った。
 覚悟を決めていたリージアは、懐から小さな懐剣をそっと取り出す。
「冗談はよせよせ、娘さん」
「そんなもんで、俺たちにかなうと思ってるのか」
 哄笑が闇を震わす。
 むろん、彼らに抵抗するつもりは最初からない。
 兄以外の誰かにこの純潔を奪われる――それは死よりも耐え難いことだった。ガーディアに嫁ぐくらいなら――ラウルの妻になるくらいなら、リージアは最初から死を選ぶつもりだったのだ。
 鋭い、けれど甘美な刃を己が胸元に押し当てた時、何かが空気を震わした。
 巨大な翼―――いや、それは無数の鳥たちだった。
 鴉、梟、鷹、鳩、目白、鶯、燕。
 様々な鳥たちが、いっせいに嘴を下降させ、荒くれ男たちに襲い掛かる。

「な、どうなってんだ、こりゃ」
「この娘っこは、魔女の使いだ、逃げろ、殺されるぞ」

 男たちが去り、凶暴な鳥たちの気配が消えた。
 リージアが下げていた頭を上げた時、一羽の白鳥が月光を背に、優雅に翼を広げ――ゆるやかに舞い降りてくるところだった。
「お……兄さま……?」
 リージアは呟いた。
 膝で這いより、地面に足を下ろした白鳥の頬にそっと触れる。
 ほっそりと伸びた優雅な首をかしげ、白鳥は低い声で一声鳴いた。
 それが例え人外のものであっても――その美しさ、気高さは兄のものに違いない。
「お兄様……」
 溢れる涙を拭う事も忘れ、リージアはその柔らかな羽に頬を埋めた。
 白鳥は――ひどく哀しげな目をしたまま、ゆっくりと首を左右に振る。
 まるで――帰りなさい、リージア。そう言っているかのように。
 鳥たちは周囲の木々に翼を預け、どこか沈鬱な面差しで、運命に引き裂かれた兄と妹を見守っている。
「お兄様、お願い、私をフォーレーンの魔女にもう一度会わせて、私もお兄様と同じ、鳥になりたい」
 泣きながらリージアは言った。
 白鳥は首を振る。ゆっくりと横に振る。
「お願い……、このままだと、私……ラウルの妻にさせられてしまう。お兄様、言ったじゃない。絶対にラウルの所にはやらないと、言ったじゃない……」
 言葉を持たない美しい鳥は、静かな眼差しを曇らせる。
 リージアは号泣した。
 鳥たちが一斉にそよめき始める。
 合唱を始める。
 彼らの言葉は判らない、けれど――彼らは、この娘の願いを叶えてやれと、そう兄に言ってくれているような気がした。
 やがて、鳥たちは羽ばたきはじめる。一列に隊列を組み、まるで、リージアを先導するかのように。
 白鳥の王子も翼を広げた。何度もリージアを振り返り、振り返り、ゆっくりと上昇していく。
 ――ついておいで、リージア。
 それは、そう言ってくれているように感じられた。
「お兄様……」
 リージアは立ち上がり、痛む足を引きずるようにして歩き始めた。
 鳥たちに護られながら、彼女はフォーレーンの魔女の待つ、ダイノアスに向かった。


 どれだけの距離を歩いたのか――。気がつくと、森を抜け、国境は目の前だった。
 闇が薄らぎはじめている。
 蒼白い朝の光が、わずかに足元を照らし始める。
 ――魔女の妖力は、夜しか効かないということだけど。
 リージアは天の高みにいる兄を見上げた。
 ――お兄様は……夜が明けたらどうなってしまうのだろう……。
 その時。
 穏やかに隊列を組んで飛び続けていた鳥たちが、一斉に乱れ始めた。
 朝の静けさを破り、騎馬の群れが現れる。
 抜けたばかりの森の中から、数十騎の騎馬隊が飛び出して、唐突に距離を縮めてくる。
「リージア!」
 聞こえてきたのは、昨夜聞いたばかりの義姉の声。
 リージアは息を引いて、立ちすくんだ。
「お前……、こんなところで何をしているの!」
 アイルは、先頭に立つ騎馬兵の背に相乗りしていた。
 血相を変えて馬から飛び降り、こちらへ駆けて来るアイルの前に――フィエルテが――白鳥が舞い降りてくる。まるで彼女の怒りを鎮めようとするかのように。
「……フィエルテ……あなたなの……?」
 アイルは、凍りついたように動きを止め、信じられないものをみるような目になった。
 その腕で翼を収め、美しい白鳥は妻の頬に首を寄せる。
 妻の目に、みるみる大粒の涙が浮かんだ。
「あなた……どうして……こんなことに……」
 リージアは駆け出そうとした。
 国境は目の前、ほんの数歩先だった。
 意に添わぬ男の妻になるか、愛する人と同属になるか。その境界線が目の前にあった。
 もう直夜が明ける。それまでに――魔女に、フォーレーンの魔女に会わなければ。
「行かせないわ」
 それに気づいたアイルの声が追いすがる。
 腕の白鳥を振り払い、彼女はリージアの傍に駆け寄った。
「リージア、あんた、魔女の呪いを受けて、フィエルテと同じ白鳥になるつもりなのね。……させるものですか、私はね、あなたみたいに逃げたりはしない。魔女に、呪いを解く方法を聞きに来たのよ」
 アイルの傍を離れた白鳥は、哀しそうに羽ばたきを繰り返す。
 アイルはリージアの腕を掴み、騎馬の方に向け突き飛ばした。
 そして、国境の向こうに向かって声を張り上げる。
「魔女ーーっ フォーレーンの魔女、ここに、私の国の美しい若者を二十人連れてきたわ、お願いよ、それと引き換えに、フィエルテの魔法を解いて頂戴!」
 ――アイル……。
 リージアは、祈るような目で義姉の背中を見つめた。
 もし、それで兄の魔法が解けるなら、元の兄に戻るのなら、他に何も求めはしない。 
 鳥たちは、威嚇するように騎馬の周囲を飛び回っている。
 倒れたままだったリージアの腕を、背後から掴み上げる者がいた。

 ――勇敢な妻と、果敢な妹よ……お前たちの気持ちはよく判った……。

 囁くようなしわがれ声が、闇の中から響いてきた。

 ――けれど、魔法は二度とは解けぬ、私の力では、二度とは解けぬ。

「じゃあ、どうすればいいの、どうすれば、フィエルテは元に戻るの?」

 ――くっくっくっ……
 かすかな含み笑いが、距離感のつかめない方角から響き渡る。

――そうじゃな……二十人の若者より、そこの先頭に立つ男が欲しい、その者一人と引き換えに、魔法を解く鍵を教えてやろう。

「俺の事か」

 声は、リージアの頭上で響いた。
 リージアは、はっとして顔を上げた。
 自分の腕を掴んで抱き上げてくれた男――それは。
「悪いが俺には、そこまでして姉の夫を救いたい気持ちはない」
 低い声が、言葉少なにそう答える。
 ラウル。
 リージアは声にならない呟きを漏らした。
 忘れもしない、緋色の髪と、氷を抱いたその眼差し。
 甲冑の兜の前をわずかに上げ、ラウルは冷たい目でリージアを見下ろした。
 逃げようとしても、掴まれた腕はびくともしない。
「それよりも、魔女、さっさとその鍵とやらを言え。言っておくが、俺は神も魔女も恐れはしない。言わねば、カーディスの全軍を率いて、フォーレーンの森を焼き払うが、それでもいいか」

 魔女の哄笑が薄闇を震わせた。

 ――勇敢な若者よ……いずれ、お前を私のものにすると誓おう。いいだろう、鍵を教えてやる。それは、ここにいるフィエルテの妻にしか出来ぬことじゃ。

「私にしか?」
 そう繰り返すアイルの声に、歓喜の色がほとばしる。
 彼女は、横目で義妹を見下ろし、口の端だけでうっすらと笑んだ。
「言って、魔女よ、私は何をすればいいの?」

 ――今から六年、まずお前は、一言も言葉を発してはならぬ。

「……言葉……を……?」

 ――そして、お前は、その六年が過ぎるまでに、フィエルテのための上着を編むのだ。いら草で編んだ千枚の衣、それが一枚も欠けてはならぬ。

「…………」

 ――そして、六年目の最後の日、最後に編んだ一枚をフィエルテの身体に掛けるがよい、さすれば、魔法は解け、王子は元の美しい人間に戻ることができるだろう……。

 薄明かりが、闇を切り裂き始めていた。
 鳥たちがざわめき始める。

 ――フィエルテ、戻っておいで、お前が国外を飛べるのは、月が出ている間だけだよ。
 魔女がいざない、白鳥は素直に舞い上がった。
 何度か、――未練のように、その視線を妻と妹に向けながら。

「待って、魔女!」
 アイルは焦燥の声を上げた。
「それが私でないといけない理由はなんなの。どうして私でなきゃ駄目なの」
 聞きたいのはリージアも同じだった。
 情は濃いが、移り気で飽きっぽいアイルに、六年もそんな真似ができるとは、思えない。
 闇から声が返ってくる。

 ――呪われた者を心の底から愛する者、そして、愛されている者との間にしか、この効力は効かぬからだ。

「このリージアはどうなの、フィエルテの妹は」

 ――肉親の情では足りぬ、愛し合う男と女の情愛こそが、魔法を解く鍵なのだから……。
 魔女の声が遠くなる。
 ――フィエルテの妻よ、一度でも言葉を口にしてしまえば、そこで全ては終わりになる……二度と、同じ真似はできないことを、それを忘れてはいけないよ……。

 白鳥は、何度か旋回を繰り返し、そして、思いを断つように、国境の向こうに消えていく。
 朝日が眩しく周囲を照らし出しはじめる。
 鳥たちの群れは、何時の間にか姿を消してしまっていた。



「相変わらず勝手な方だ、あわよくばリージアに、その重荷を背負わそうとしたわけか」
 ラウルは低い声でそう言い、被っていた兜を脱ぎ捨てた。
 陽射しの中に、赤く萌える髪が輝く。
「どうなさるおつもりだ、そんな馬鹿げたことのために、若い年月を無駄になさるか、姉上殿」
 そう言いながら、まだ彼はリージアの手を離そうとしない。
「やるに決ってるでしょ、……やってみせるわよ、フィエルテのためだもの」
 アイルは、苛立ちを滲ませた目をリージアに向けた。
「それにこれは、私にしかできないことなんだから、私にしかね」
 言葉を返せず、リージアは唇を噛み締めた。
 愛――それが許されないものだとしても、思いの深さならアイルには負けない。けれど兄は、女としての自分を愛してはいない。多分―― 一度も、そんな風に見てくれたことはないはずだ。
 だとしたら、それはやはり、アイルにしか出来ないことなのだ。
「ひどい怪我だな」
 ふいに、足首に触れる手の温度を感じ、リージアは、身体を固まらせて、後ずさった。
 ラウルが膝をつき、傷ついた足の傷に触れている。
「私に触らないで」
 咄嗟にそんな言葉が出た。
「あなたに、触れて欲しくないの」
「……まだ、俺を嫌うか、深窓の姫君」
 ラウルは、顔を上げてそう言った。醒め切った――まるで感情の読めない目。女の言葉に怒ったのか、少しだけ眉根が寄っている。
 リージアは無言で顔を逸らした。
 実際、彼の顔を見るのも苦痛なのだ。
 やがてラウルは、嘆息して立ち上がる。
「……一体何が不服で、お前はそんなにも俺を嫌う。俺が妾腹で、卑しい身分の生まれだからか」
「この女には、フィエルテ以外の男は、みんな紙くず同然に見えるのよ」
 アイルが冷笑と共に口を挟む。
 ラウルはリージアに背を向けて、兜を元通りに被りなおした。
「いずれにしろ、お前の身体は俺のものだ……いずれ準備が整ったら迎えにくる、そのつもりで待っているがいい」
 リージアは、何も言えなかった。
 抑揚のない口調には、――彼と初めて会い、その日の内に求婚された時と同様に、一欠片の感情もないように聞こえた。








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