四


 御守は――雪来の声を聞いた時より、さらに深く驚愕した。
―――そんな、
 ぎこちなく固まった首が動かせない。それは――有り得ない声だった。
 そして、決して忘れられない声でもあった。
 エレベーターホールからゆっくりと歩み出てきた長身の男。彼はブラックスーツを身にまとい、グレーのネクタイを締めていた。
 全体にひどく痩せて見えるが、顔色は悪くなかった。かつての美貌はそのまま――けれど、隠し切れない疲れと病人特有の憔悴感が、蒼白い肌に滲んでいる。
 その背後に――長瀬の渋面があった。
「騒いでしまって申し訳ありません。私どもは御守専務と家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっている者です。今日も専務にご挨拶に寄らせていただいたのですが、日ごろ懇意にしてもらっておりますので、この子もつい甘えてしまいまして……、このような所にまで、押しかけてしまいました」
 丁寧な口調でその場にいる者たちにそう言うと、美倉坂涼二は瓏たけた笑みを浮かべた。
 そして、ゆっくりと、穏やかな眼差しを雪来に向ける。
「さぁ、おいで、雪来」
 雪来は素直にうなずくと、そのまま御守の腕を離れて美倉坂の背中に回った。手の平で何度も眼を擦っている。
「御守専務」
 美倉坂は静かな眼差しで御守を見上げた。
「取り込み中とは存じ上げますが、ご相談したいことがあります、よろしいでしょうか」
「それは……いいのですが」
 答えながら、この唐突な再会に、御守はひどく戸惑っていた。
「………あと十分で、会議が始まります、後にしていただいてもよろしいでしょうか」
「いえ」
 美倉坂はきっぱりと首を横に振った。
「五分で済みます、…ぜひ、会議の前に聞いていただきたいのです」
 そして、御守の傍らに立つ紳司を、冷たい眼差しでじっと見つめた。
 数年前、御守でさえ気おされた瞳だった。紳司はむっとした顔で黙り込み、苦々しげに肩をすくめる。
「雪来、お前は長瀬さんと一緒に出ていなさい」
 美倉坂はそう言って、雪来の背を押して長瀬の方に促した。
 雪来は背を向ける間際、不安そうな眼で御守を見上げる。
 大丈夫だ、―――その意味をこめて、御守は強くうなずいた。


                 五


「本当に……ご迷惑をおかけしました」
 会議室を少しはなれたエレベーターホールまで来て、美倉坂はようやく御守を振り返った。
「でも間に合ってよかった、受付けで長瀬さんとお話している間に、雪来が勝手にエレベーターに乗ってしまったのには驚きましたが」
「そうでしたか」
 御守はそう言い差したきり、言葉が続かなくなっていた。
 美倉坂はわずかに笑んだ。
 笑い方の癖がどことなく雪来に似ている。いや――雪来が彼に似ていたのだ。むろん、血は繋がっていないのだから、顔立ちはまるで違う。
 けれど笑い方、喋り方の癖は、長年一緒に暮らしているだけあって美倉坂と酷似している。
 多分――だから初めて雪来を見た時、一瞬で惹きつけられ、そのまま受け入れてしまったのだろう。無意識の内に、雪来の中に忘れたくて――けれど、それと同じだけ、許されたいと願っていた面影を見出していたのだ。
 美倉坂はしばらく無言で御守を見上げていたが、やがて静かに手にしていた封筒を差し出した。
「これは、教会の土地建物の権利書です。お好きにお使い下さい」
 御守は眉をひそめ、その意味を図りかねた。
「施設は閉鎖しました。私も教会を引き払うつもりです。……今回のことは、雪来が失礼いたしました。……保護者として、謝罪します」
 そう言うと、美倉坂は深く頭を下げた。御守は困惑した。
「待ってください、悪いのは私の方で、彼女じゃない、それにこんなものは受け取れません」
「いえ、それならばこれを、理光リビングサポート様に直に持っていくだけのことです。もう私の決意は変わりません」
 蝋の肌をした男は、硬い口調できっぱりと言った。
「……御守さん、人は分け与えなければなりません、私は過ちを犯しました。両親の遺骨が眠るあの土地を離れたくなくて、――他の方たちが全て、新しい街づくりに協力して立ち退かれたというのに、一人、我を通してしまいました。あの日から、私はずっと悔いておりました」
「美倉坂さん……」
 言葉が何も出てこなかった。こんなに何もかも――心の底をさらけ出すように語る男を見たのは、本当に初めてのことだった。
 美倉坂は軽く唇をかみ、わずかにうつむき、そして何かを振り切るように顔を上げた。
「……私は知っていました。私の婚約者があなたに、教会の存続と引き換えに……自分の身体を提供したことを」
 さすがに、息を詰まらせていた。なんと――どう詫びていいのか、それさえも判らないほどに。
「……謝らせてください」
 御守は、途切れそうになる言葉で、ようやく言った。
「土下座させてください、あれは、俺が彼女を脅迫したも同然のやり方だった。俺は……最低なことをした……」
 全ては、この男への羨望と嫉妬が原因だった――などとは、とても言えない。
 膝を付きかけた御守の肩を、美倉坂は強く掴んだ。
「いいえ、御守さん、これだけは伝えなければなりません……彼女は知っていたのです。あなたの嘘の脅迫を、……教会が、残されることになりそうだということを」
「…………」
――――え……?
「けれど………彼女は」
 美倉坂はまっすぐに御守を見つめた。その眼には迷いはなく、はっきりとした意思の輝きが戻っていた。
「彼女の意志で、ああなることを望んだのです。あれは、彼女なりの恋の告白でした……私は……最初から、それを知っていて、そして」
「…………」
「試したのです、女を――彼女の気持ちを。そういう意味ではあの時、一番卑怯で、一番傲慢だったのは誰でもない………私でした」
「…………」
 その意味が胸に落ちてくるまで数秒を要した。
 御守は信じられないものを見るような思いで、端正な顔を持つ聖職者を見つめた。
「………苦しみました。けれど今は……乗り越えたつもりです。だからこうしてあなたに会いにくることができました」
「美倉坂さん……私は」
 何と言えばいいのだろう。
 謝罪は、かえってこの誇り高い男を傷つけるだけのような気がした。
 病床に伏した時ですら頼ろうとしなかった、この友人の気高さを大切にしてやりたかった。
 御守はうつむき、そして、迷いを振り切って言った。
「……私も……苦しみました、でも………乗り越えたと思います、美倉坂さんと同じように」
「………」
 わずかに瞬きを繰り返し、対峙する男は初めて晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。それを聞くことが出来ただけでもここへ来てよかった」
「……彼女とは」
「あの時別れた彼女は今、別の教会で結婚し、子供も出来たと聞いています、今でも、家族くるみでお付き合いをしていますよ」
 優しい笑みが、聖職者の眼に浮かんでいた。
 御守はようやく――心から安堵していた。そして、――強い口調で言った。友人に戻れたのなら、どうしても聞き入れて欲しいことがある。
「美倉坂さん、あなたはご病気だとお聞きました、これから何かあれば、私に力にならせてもらえないでしょうか」 
 真摯な気持ちを込めて言ったつもりだった。けれど頑ななまでに気高い男は、即座に首を横に振った。
「少し過疎地になりますけれど、知人から新しい教会を紹介していただきました。私は子供たちを連れて、そこへ移り住むつもりです」
 そして真っ直ぐに顔を上げて、御守を見つめた。
「……私は二度とはお目にかかりません。ただ、ひとつだけ、……雪来のことだけを、あなたにお願いしたい」
「ゆ……きを、ですか」
 御守は心底驚き、そしてその表情を隠せないまま呆然としていた。
「それは、……どういう意味でしょうか」
 このことだけは、例えどう拒否されても、謝罪して――そして、許してもらわなければならないと思っていた。それでも、二人の関係を美倉坂に理解してもらうのは難しいだろうと――そう思っていたところだった。
 美倉坂の眼に、はじめて悲しげな色が滲んだ。
「……高校を出るまでは、なんとか私が面倒を見るつもりです。御守さんには、大学に入ってからの、雪来の後見人になっていただきたい」
「しかし」
「残念ながら、今の私に、雪来を大学にまで行かせる余裕はありません」
 美倉坂は静かにそう言うと、眉をひそめた。
「雪来はあの通りきれいな子供です。……美しいということは、誘惑や不幸に陥りやすいという一面を有しています。今までも、雪来を引き取りたいと言ってきた者は沢山いたのです。これからも、きっと様々な誘惑が彼女の身に降りかかってくるでしょう。………私は、雪来の引き取り手に関しては、非常に慎重に対処してきました」
 御守は黙ってその言葉を聞いていた。
「あなたが雪来にしたことが間違っていたとは言いません、あの子が仕掛けたことも知っています。ただ……あなたは大人で、雪来は子供だ。この場合、大人のあなたが責任を取る必要があるでしょう、違いますか」 
「仰るとおりです」
「……あなたを信じています。雪来にしっかりとした教育を受けさせてやってください。あれは非常に頭のいい、そして……寂しい子供ですから」
 最後にそう言うと美倉坂は手を差し出した。御守はその手を緩く握った。
「お元気で……」
 他に言うべき言葉は見つからなかった。


                六


 取締役員会議を終えて、専用オフィスがある十一階に戻って来た時には、もう午後六時を過ぎていた。
 さすがに疲労を感じていた。後半は集中砲火のように質問が浴びせられ、息つく間もなかったほどた。
「どうなりました」
 秘書室を開けると、待ち構えたように長瀬が出てきた。
「予定通りだ、新しい赴任先が決まるまで、しばらく暇になりそうだ」
 御守はネクタイを緩めながらそれに答えた。
「そうですか」
 予想していたのか、強面の男が、顔色を変えることはなかった。
「では……今日はもう、私は失礼してもよろしいでしょうか」
 静かな声が、その隣を通り抜けた御守の背に掛けられる。
 少し驚いて、振り返っていた。
「………それはいいが、まさか、これが最後ってことはないだろうな」
「ご心配なく、引継ぎまでは出勤しますよ」
 そう言うと、長瀬は一礼し、ものも言わずに退室した。
「…………」
 御守は眉をひそめた。長瀬が自分よりも早い時間に帰宅したのは、これが初めてだ。不審に思いつつも上着を脱ぎ、専用オフィスの扉を開けた。
 そして少し驚いて立ちすくみ、ようやく先に帰ると言った秘書の真意が判った気がした。
「雪来………」
 御守の声が聞こえていたのだろう、雪来は、殆ど扉の前に立っていた。
「御守さん……」
 柔らかな身体が被さってくるのと、背後で扉が閉まるのが同時だった。
 もの苦しい衝動と愛しさをもてあましながら、御守はゆるくその身体を抱き締めた。
「……雪来……、俺のところへ、来るか」
 うん、とものも言わずにうなずく頭。
 その髪に指を絡め、やさしく撫でた。
「だったら少しの間、しっかり高校生をやっておけ、俺もせいぜい、平サラリーマン生活に精を出すから」
 雪来はびくっと身体を震わせて顔を上げた。
「……まさか………専務、やめることになったの?」
「お前のせいじゃない、自分で決めたんだ」
「でも」
 御守は雪来の頭を軽く小突き、そのままソファに座らせた。自分は自身の机につき、少し相手との距離を置いた。
「……あの街を作ったのは確かに俺なんだ。今その街が上手く機能していないのも、極限すれば俺の責任だったということに、ようやく気がついただけなんだよ」
 何か言いたげな雪来を手で制し、御守は続けた。
「それに、出来ればもう一度、あの街づくりに直接携わってみたいんだ。……そこまでしなければ携わったなどと無責任には言えないし、――責任を取ったことにはならないだろう?」
「結婚は……どうするの……」
 心もとない声だった。御守は苦笑した。先ほど、本匠家から、挙式の延期の申し入れがあったばかりだった。
 今となってはそんなことに拘泥していたのがばかばかしいと思えるくらいだ。
「……彼女にとって、必要なのは俺個人じゃなくて、肩書きを持った人間だ。……今は、会社のために結婚までしようとしたことが、嘘のように思えてる」
―――会社のためというよりは、
 御守は苦い笑みをかみ殺した。
 親父のためだ。親父の期待に、死んだ姉の分まで応えようと、――――どこかでしゃかりきになって自分を見失っていた。
 その呪縛が解けた時から、少しずつ自分が見え始めていたのかもしれない。
「人魚……か」
「え?」
「いや、やはり俺は、お前に助けられたらしい」
 ふと見上げた窓の外に、雪が舞い始めていた。
「……お前の、希望どおりになったじゃないか」
 御守は呟いた。
 灰色の闇に、白く淡い星屑のような欠片が、舞うように散っていた。
「本当だ、」
 雪来は、眼を輝かせて立ち上がった。
 その姿が、ガラス越しに映っている。
「……誕生日なんだ……今日、私、十五になったんだよ」
「そうか……」
 御守は動かなかった。
 少なくとも雪来が高校を出るまでは、待たなくてはいけないと覚悟していた。
 気がつくと、雪来が窓を離れ、御守の背後に立っていた。
「ひとつ…嘘を言ったんだ」
 雪来は呟いた。
 その真面目さが可笑しくて、御守は思わず苦笑した。
「本当にひとつなのか?お前は、会った時から嘘ばかり言ってるからな」
 それには答えず、雪来は静かな口調で続けた。
「私……言ったよね、あなたが一番大切なものを汚したって……あれは………教会のことでも、涼二さんのことでもない」
 その腕が座っている御守の首に回され、背中から抱き締められた。
「私………あの時から……」
 首筋に吐息ごと押し当てられる。
「……あなたの姿を見た、あの夜から」
「………」
「………こわいくらい、……あなたのことばかり考えていたから……」
「……雪来」
「あなたが、汚したのは……」
 それきり何も言えなくなった雪来の頭を、御守はそっと手の平で覆った。
「それが、海から覗いて見た景色か」
「……そう」
「じゃあ俺は、とんでもない最低の王子じゃないか」
「私も、とんでもない人魚だよ」
 互いに、声を漏らして笑いあった。そのままごく自然に視線が合い、軽く唇が重なった。
「…約束して………」
「なんだ…?」
 窓の外を、降り止むことを知らない細かな雪片が、幾層にもなって舞い上がる。
 背中から回された手が、御守の左手を持ち上げた。
 肩越しにその手が引き寄せられ、そして、指先に唇が触れるのが判った。
 もう一度指にキスされた。すぐにでも立ち上がって抱き締めたい衝動に、御守はじっと耐えていた。
「この手も、指も、」
「…………」
「もう……私だけのものだって、約束して」
「………約束するよ」
 抑制した最大の愛しさをこめて、御守は囁いた。自分の手を雪来の手に重ね、しっかりと握り締めた。
「――……お前だけのものだ」
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