二



 机の中のものを全て整理し終わり、御守は嘆息して立ち上がった。
 緩めていたネクタイを締め直す。腕時計を見ると取締役会議の時間まであとわずかだった。
―――クリスマスイブに、会議もないだろう。
 予定を聞いた時はそう思ったが、今となってはきりのいい結末だった。
 会議の後はメインバンクである住愛銀行頭取主催のホームパーティに招かれている。けれど、取締役会の結末が周知のものになれば行く必要はなくなるだろう、そんな気がした。
「蓮さん」
 開け放しにしていた扉の向こうから、長身の長瀬の姿が入ってくるのが見えた。
 彼は今朝、すでに辞表を提出していた。
 御守は立ち上がり、この部屋をあてがわれて初めてするような――開放的な伸びをした。
「今日は天気まで愛想なしだな、長瀬」
 窓の外を見ながら呟くように言った。
 灰色の空は雲が重く垂れ込めて、今にも雨が降り出しそうに見える。
「煙草持ってるか」
 振り向いて言うと、長瀬は無言でポケットから煙草のケースを取り出した。
 一本取り出し、それを御守に渡すと、すぐにライターで火を点けてくれた。
「私も、よろしいですか」
 長瀬はそう言うと、自分も煙草を口に咥えた。御守は咥えたままの自分の煙草を長瀬の方に寄せ、煙草から直に火を移してやった。
 長瀬は何故か硬直しており、御守はその理由を漠然と察していた。
「……久しぶりですね」
 煙をゆるく吐き出しながら、元ヤクザは優しい声で呟いた。
「最近のサラリーマンの出世の条件は禁煙だからな」
「もう出世は諦めましたか」
「禁煙してまでしがみつくのもバカバカしいもんだな」
 長瀬が嘆息する気配がした。
「……もう一度言いますが……蓮さんが命じてくれたら、子供の口を塞ぐことくらい簡単にできるんですがね」
「お前が言うと、しゃれになってない」
「紳司さんを追い落とすネタも揃えている。なのにカードは切らないつもりですか」
「長瀬、これは俺自身のけじめの問題だ」
 御守は静かな口調で言った。
「……心配しなくても、会社をクビになるわけじゃない、自分の力に相応しい部署で、もう一度やりなおすだけだ」
 ふいに、長瀬の腕に肩を掴まれていた。
「………、」
 睨んでいるようにも見える凶悪な容貌、けれど長く一緒にいた御守には判る、彼なりの真摯な顔が、じっと見下ろしている。
 けれど、迷うような沈黙の後、長瀬はそのまま顔をそらした。
「……長い間、お世話になりました」
「また秘書が必要になれば、頼んでもいいか」
「塀の中にいなければ、いつでも」
 御守は長瀬を見て笑い、長瀬もまたわずかに苦笑した。
「さて、……行くか、最後の仕事だ」
 景気づけるようにそう言うと、椅子に掛けていた上着を取り上げた。
 

                  三


 十二階にある大会議室に入ると、役員の半数がすでに席についていた。
 対面に北條監査役の席がある。北條は席につき、そしてその横に御守紳司の見慣れた長身が立っていた。
 御守を認めると、定年間際の監査役はわずかに眉をひそめ、紳司は「これはこれは、」と片手を上げる。
 そして紳司は、円形の机を回り、ゆっくりと歩み寄って来た。
 席に座ろうとした御守は足を止め、立ったまま、晴れやかに着飾った従兄弟が近づいてくるのを待ってやった。
「……よう、蓮、覚悟を決めたって顔をしてるな」
 肩が触れるほど近寄ってきた紳司は、開口一番にそう言うと、いつもの嫌な笑い方をした。
「まぁな」
 御守はそっけなくそれに答えた。
 少し不思議な気がしていた。これほど間近で話しをしている。――なのに、以前のような嫌悪感も気後れも沸いては来ない。
 それは姉への妄執から立ち直れたことを意味しているのかもしれない。この――異母姉に似すぎた男を見ても、感情がなんら乱されることがない。
「会長は、欠席されるそうだな」
 ポケットに手を入れ、紳司はどこか楽しそうに言った。
 実際楽しくて仕方ないのだろう。御守が退けば本社専務職のポストに空きが出る。紳司が狙っているのは――その後任だ。
 ふと、そんな従兄弟がひどく矮小に思えた。
 けれどそれは、間違いなく昨日までの自分自身の姿でもあった。そう思えた途端、まるで長い夢から――この瞬間、目覚めたような気持ちになった。
 御守は苦く笑んで言った。
「父には夕べ辞意を伝えた、だからだろう」
 何度も思いなおすように懇願され、叱責されたが、一度決めた決心は変わらなかった。
 無論、美倉坂教会に係るいきさつは告げてはいない。ただ東風新都の件で、けじめをつけたいとだけ言い張った。
「ま、お前は少し休むんだな、蓮。なんにしてもしばらくはマスコミ対応で大変だろうが」
 馴れ馴れしく肩を叩かれる。
 御守はそれを振り払おうとして、手を止めた。廊下で――場違いな怒声が聞こえる。
「こらっ、ここは立ち入り禁止だと言ったろう」
 荒々しい声が、会議室にまで響いてくる。
「通してよっ、どうしても、……話さなきゃいけないことがあるんだから」
 その後に続く声を聞いた時、さすがに驚愕して振り返っていた。
「……雪来?」
 あり得ない、まさか、と思っていた。
 同じように驚いて立ちすくんでいる紳司を押しのけるようにして、開け放たれていた扉の外へ飛び出した。
「雪来」
 思わず口をついて出た。
 制服姿の警備員に腕を取られ、引きずっていかれそうになっている女。
 長い髪と、くすんだようなカーディガン、ジーンズに編み上げのブーツ。
 雪来の姿―――が、すぐに視界に飛び込んでくる。
「御守さん」
 救いを求めるような眼差しがこちらを見上げる。
―――どうして……。
 雪来は、初めて御守と会った時と同じ服を着ていた。
 警備員に掴まれているその腕は、先日御守が渡してやったばかりの、革製のコートを抱き締めている。
 すぐにも叫んで駆け寄りたい衝動を堪え、御守は静かな口調で警備員に声を掛けた。
「君、この子は私に用があるんだ、離してやってくれないか」
 ようやく拘束を解かれた雪来は、ほっとしたような、怯えたような、複雑な顔で立ちすくんでいる。
「雪来、」
その傍に歩み寄ろうとした時、
「こんなところで何してやがる、このガキ」
 背後で鋭い声がした。
 振り返ると紳司がすぐ後に立っている。
 銀縁眼鏡の下、不快そうにすがめられた目。
 紳司は、靴音を荒げて御守の横を通り抜け、そして、そのまま雪来の傍に歩み寄ると、片手を掴んでねじりあげた。
「何をする」
 御守は驚いて、紳司の肩を掴もうとした。紳司はそれを乱暴に払う。
 そして、腕を掴みあげた少女に噛み付くような顔を向けた。
「来い、ここはお前のようなガキが来る所じゃないんだ」
「離してよっ、離せっ、莫迦っ」
 雪来は、掴まれた腕を振り払おうと暴れている。
 無論、すぐに抵抗は抑え込まれる。
 会議室から、騒ぎを聞きつけた役員たちが、けげん気な顔をのぞかせはじめた。
「紳司、よせ」
 御守は紳司の肩を掴み、小声で言った。ここで――騒ぎを大きくしたくない。
 そんな御守の思惑をどう取ったのか、紳司は口の端を歪めると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ガキ、判ったか、お前が来れば蓮が迷惑するんだよ」
 悔しそうに男を睨む、雪来の唇が震えている。
「ここはお前が来るような場所じゃないんだ、判ったらとっとと出て行け、薄汚い孤児の分際で……」
 そのまま乱暴に、掴みあげた腕をねじって、引きずっていく。
「みか……」
 一瞬言葉を失いかけた雪来が、何か言いたげな視線を向けてくる。
「―――紳司!」
 御守は、従兄弟の腕を強く掴んだ。
 少し驚いた眼になって、青みを帯びた顔が振り向く。
「……雪来を離せ」
「へえ」
 銀縁眼鏡の男は薄っすらと笑んで、囁いた。
「いいのか……?ここで俺が、お前たちの関係をばらしても」
 挑発的なまなざしに、明らかなあざけりの色が浮かんでいる。
 みだらな視線で、御守と雪来をねめつけると、紳司は、少女の腕を掴んだまま、自分の方に引き寄せた。
「役員みんなが聞いてるぜ……?お坊ちゃま、あんたのスキャンダルが、一気にグループ内を駆け巡ることになるんだぞ」
「俺は構わない……」
 言いかけて、御守は逡巡した。
 そして迷うような目で、蒼白になっている少女を見た。
 もう御守自身は覚悟を決めている。しかし雪来にとっても不名誉な醜聞、それをこれ以上広めてしまっていいものなのか。
 その迷いをどう解釈したのか、紳司の冷笑はさらに濃くなった。
「カッコつけるなよ、お坊ちゃま、あんたは美少女好きの変態だ。女遊びが原因で進退を誤まった愚かなジュニアだ。そんな噂が広まるの、あんただって嫌だろう。判ったら大人しく、」
 年下の従兄弟の饒舌は、そこで途切れた。
 掴まれた腕を、眼を見張る敏捷さで振り解いた雪来が、その返す手で、なま白い長身の男の頬を思い切りよく叩いていた。
 静かな廊下に、張手の音が鮮やかに響く。
「……な…………」
 あまりのことに、あっけに取られた紳司が、そのままどすんと尻餅をついた。
「あんたの言うことは、もう聞かない」
 雪来の声は震えていた。気後れしているというよりは、ひどく怒って感情の収集がついていないといった感じだった。
「………御守さん、証拠なんて何もない、嘘を言ったんだ。もういいんだ、私、……私が、間違ってたから………全部…」
 声は震え続けている。
 御守はどうしていいか判らずに、自分が渡したコートを千切れるほど強く握り締めている少女を、ただ見つめた。
「…私………いけないんだ……本当は、独り占めしちゃいけないって………判ってるんだ、なのに…………」
 雪来はうつむいた。
 噛み締めた唇がかすかに震え、堪えていたような涙が一滴、きれいな頬に零れ落ちた。
「………御守、さんの、」
 震える手が掴んでいる皮のコート、それに唇をあて、雪来はしゃくりあげながら呟いた。
「………この服だけは………誰にも………あげたくない…………」
―――雪来……、
「どうしたらいいか、判らない………でも、」
「………雪来、」
「………誰にも……渡したく、な……」
 迷うより先に腕が伸びていた。
 涙で濡れた顔が、驚いたように上を向く。
 華奢な肩を掴んで引き寄せ、そのまま深く抱き締めた。
「………救いようのない莫迦だな、お前は……」
 胸の中で嗚咽が響いた。年相応の泣き声を放ち、雪来は崩れるように御守の胸にすがった。
「………すごい現場だな、これは」
 背後で紳司が立ち上がる気配がし、揶揄するような声が響いた。
 御守は何も言わなかった。言い訳も誤魔化しも腹芸もない。なるようになれ、と腹を決めた。
―――今はただ、雪来の心を取り戻せた、それだけでいい。
 その時、
「すいません、うちの娘がご迷惑をおかけしました」
 突然、落ち着いた声が背後でした。
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