一


―――こんなことが、前にもあったな………。
 広いホールを見回しながら、香坂雪来はそう思った。
 東京、新宿にある株式会社理光不動産の本社ビル。
 その一階は吹き抜けホールになっていて、会社の業績を示す展示物が並んでいる。パーティションで区切られたこの一区画だけ、社員外の者でも自由に見学できる仕組みになっている。
 ただし受付より先には進めない。社員たちはパスを見せてその先にあるエレベーターホールに向かっている。
――――さてと、
 雪来は、街づくり景観賞を受賞したという「東風新都」の上空写真を見ながら嘆息した。
「どうしようかな……」
 その横を通り過ぎるスーツ姿の社員……とおぼしき人たちが、時折雪来を振り返っていく。
 約三年の間で、見下ろされることから見つめられることに変わった視線がくすぐったい。正面の受付に座る、いかにもお嬢様風の二人の女性も、三年前とは違う顔、違う制服に変わっている。
 午後二時前、ビル前の通りも、ビルの中も、どこか閑散として、時間の流れがゆるやかに感じられた。
「ねぇ……あなた、ここの社員の知り合い?」
 ふいに、受付嬢の一人が、声をひそめて囁いた。
「さっきから、ずっとここにいるみたいだけど、何か御用?」
「御守専務に会いたいんだけど」
 少し超著してから、雪来は言った。
「この三月から、ここに戻ってきたって聞いて」
「専務のお知り合い?」
 けげんそうに見上げる瞳。
「うん、」
 雪来は悪びれずにうなずいた。
「身内です、呼んでもらえるかな」
「専務なら、」
 そこまで言いかけて、ふいに、二人の受付け嬢が顔色を改めて立ち上がった。
 雪来は、彼女たちの視線を追うようにして振り返る。
 ガラス張りの正面入り口。その前に一台のリムジンが滑り込んで来たところだった。
 磨きぬかれた黒い流線形のボディ。後部席が開き、中から一人の長身の男が降りてくる。
 乱れのない真直ぐな足取りで、彼は入り口の自動扉をくぐり、受付嬢たちを軽く一瞥した。
 上質のブラックスーツ。チャコールグレイのタイ。
 端正で引き締まった横顔に、少し前髪が落ちている。切れ長で冷たそうな眼は、三年前と変わらない。
「専務、お帰りなさいませ」
 受付嬢が、声を揃えて頭を下げる。
 眼線だけでそれに答え、彼はそこを通り過ぎようとした。
「……わっ!」
 背中から忍び寄った雪来は、掛け声と共に、唐突にその背を叩いた。
 受付嬢たちが仰天している。
 有り得ない場所でふいに背を叩かれ、眉をひそめて振り返る懐かしい顔。
 本当は、雪来自身が、足が震えるほど緊張して、驚いていた。
―――嘘みたい……三年前より、目茶苦茶かっこよくなってるじゃん……。
 三年前もこの場所で、雪来は、御守に見とれていた。
 紳司という男から、御守蓮という名を聞いただけで、すぐにそれが<王子様>だと判った。写真をやろう、という申し出を拒否して、子供の頃、遠眼に見ただけの印象から彼を探し――このロビーで待ち続けて、ようやく見つけて――。
 そして今も、あの時と変わらない激しさで、やはり彼に――この男に一目で惹きつけられている。
「…………お前……」
 御守蓮はしばらく言葉を忘れたように雪来を見つめ、何か言おうとして口を開いて、また閉じた。
「……お前…?雪来か……?」
「三年ぶりだね、御守さん」
 絶対に驚かれるだろうと確信していた雪来は、わざと平静さを取り繕って言った。
「お前………てんで連絡しなかった癖に、何考えてるんだ、いきなり」
 戸惑ったように小さく言うと、御守はさらに声をひそめて囁いた。
「今、忙しいんだ、夕方まで時間をつぶして、七時頃来い」
「どこに」
 少しふくれた真似をしてみた。本当は戸惑う御守の顔を見るのが楽しくて仕方なかった。
「前と同じだ……俺のオフィスにだ、いいな」


                ニ


 時間が立つのが、焦れるほど長く感じられた。
 不思議だった。三年間はあっという間だったのに――ほんの五時間余りが三年よりも長く感じられる。
 久しぶりの東京の街をあちこち歩き回り、以前御守に連れられて行ったブティックなども覗いてみた。店内は様変わりしており、あの時雪来を口説いた異国風の青年の姿はどこにもなかった。
 御守の姉の話が聞きたくて、一度だけ誘いに応じたことがある。
 無論何もされなかった……というよりは、意地でもさせなかったのだが、その時のことが懐かしく思いだされた。
 気がつくと、すでに六時を大きく回っていた。
 少し慌てて通りに出た。タクシーを拾おうかとも思ったが、財布の中身を考えてやめた。――歩くのもいいな、と思った。七時まで待たせる御守が悪い、自分が待ち続けた時の重みを、あの鈍感な人にも知って欲しい。
 目指すビルに戻って来た時には、七時を十五分も過ぎていた。
「…………」
 ここまで来て、少し不安になっていた。
 この三年、九州の片田舎で、美倉坂と共に暮らしてきた雪来は、御守とは一度も会わなかった。
 時々メールをやり取りして、互いの近況を確認してはいたものの――直接会うことはしなかった。多分――御守の方で、美倉坂涼二への遠慮があったのだと思う。
 来月、雪来は東京にある全寮制の女子大へ入学する。 
 それを美倉坂と話し合って決めたのは、多分―――御守だろう。
 全寮制というのがいかにも規律を重んじる涼二らしいと思ったし、―――反面ひどく寂しいと思ったのも事実だった。待ち続けた恋人との再会も、寮に入ってしまえば制限される。
―――それに………。
 夜間入り口を通り、エレベーターに乗り込みながら、雪来の不安はますます膨らんだ。
―――私……、変わってしまったから。
 恋人の理想から、結構―――外れてしまったのかもしれない。
 それを、御守はどう思うだろう。子供の自分と違い、大人の世界で生きてきたあの人が――本当に、この三年間、一人きりで待っていてくれたのだろうか。
 十一階でエレベーターを降り、まだ記憶に残る通路を歩き、御守の専用執務室に向かった。
 御守はあの後、理光リビングサポートに出向し、「東風新都」の建て直しに奔走したらしい。
 その功績が認められ、結局は元にポストに満場一致で戻ることになったのだと――先月、美倉坂を通じて聞かされたばかりだった。
 紳司のことは聞いていないが、理光不動産のホームページで調べても、取締役氏名にその名を見つけることはできなかった。
 もし会えたら、もう一度平手のひとつでもお見舞いしてやりたかったのだが。
 気がつけば、御守のオフィスは目の前だった。
「………」
 少し深呼吸して、扉をノックしようとした。その途端、内部からいきなり扉が開かれる。
 驚いて息を呑む間もなく、少し怒った顔の御守に腕を掴まれ、部屋の中に引き込まれていた。
「遅いぞ、七時といったろう」
「ご、ごめんなさい……」
「…………」
 少し、ぎこちない沈黙がある。
 御守は掴んでいた腕を放し、そのまま背を向けて歩き出した。
「こっちにこい、ここは秘書室だ、散らかすと、後で長瀬が煩いからな」
「長瀬さん、戻ったんだ」
「まぁな」
 先に立つ男は、シャツにネクタイを締めたままの姿だった。
 きれいに伸びた背筋、ひきしまった腰。
 深みのある低い声も、形よい眉も、切れ長の眼も…全部あの時のまま、変わってはない。
「……少し……痩せた……?」
 専用オフィスに入り、扉を閉めてから雪来は呟いた。
「現場続きだったからな」
 短い声が返ってくる。
 仕事の最中だったのか、そのまま御守はデスクの前に立ち、ノートパソコンを叩き始めた。
「少し待て、今終らせるから」
「…………」
 胸がいっぱいになり、雪来は、何も言えなくなった。
 こうやって、同じ部屋で、同じ空気に抱かれている。それだけで――もう、何もいらない。
 ようやく画面を閉じ、顔を上げた御守は、切れ長の目を、すっと細めた。
 三年ぶりに向かい合う女を、上から下までじっと見ている。
 冷徹なビジネスマンではなく―― 一人の男の目で。
「お前………今、何センチになったんだ」
「ええとぉ……確か、Bの」
「莫迦、誤魔化すな、身長のことだ」
「………御守さんの理想より………七センチくらい上」
 自分がかなり長身なのは自覚していた。
 同級生の中でも際立って背が高い。この三年で十センチ以上も伸びたから、その変化だけでも十分御守は驚くだろうと思っていた。
「御守さん…いくらだったっけ」
「百八十ちょい、くらいだ」
「さすがに、そこまでは伸びないと思うんだけど……もし、御守さんを追い越しちゃったらどうしよう」
「いいよ」
 あっさり言って、初めて御守は優しく笑んだ。
「まだ伸び盛りだ、どんどん大きくなればいい」
 動けない雪来の前に、ゆっくりとその影が近づいてくる。
 大きな腕が背中に回される。
 引き寄せられて――それだけで、驚くほど動悸が高まり、雪来はさらに固まってしまった。
「面白い顔になったな」
「えっ……?」
「目が今にも零れ落ちそうだぞ」
 咄嗟に、両手を目のあたりに持っていった。
 御守が苦笑する気配がする。
「莫迦……何を、緊張してるんだ」
「…………」
 抱き締められる。少し暖かい首すじに頬が触れた。
「……俺が、怖いか」
 黙って首を横に振る。そのまま、広い胸に頬を預けた。
 共鳴している心臓の音。懐かしい彼の香り。
 怖くはない、けれど、不思議なくらいドキドキする。こんなの……前には感じたことがなかったのに。
「本当に……背、追い抜いてもいいの」
「普通、そこまで伸びないだろ、……まぁ、追い抜けるもんなら、そうしてみろ」
「………」
「そうしたら俺も、子供相手っていう罪悪感がなくなっていいからな」
 雪来は、初めて自然に笑んだ。
「もう……、そんなの、最初からなかったくせに」
 顔を上げて、視線が合う。
「…………」
 目線が変わらないということが、こんなに恥ずかしいとは思っても見なかった。
 頬が赤らむのを感じ、再びうつむこうとした額に、キス。
「御守さん……」
「お前、大人になったんだな」
 目蓋に、頬に、唇が触れては離れる。
「……こんなことで、恥ずかしがるなんて、別の女を抱いてるみたいだ」
「………どっちが、好き……?」
「どっちも好きだよ」
 唇が重なる。
 苦しいくらい動悸がする。
 キスはすぐに深くなり、気がつくと、ソファの上で、覆い被さる男の腕に抱かれていた。
「もう少し……待ってもいいぞ、お前の心の準備ができるまで」
 耳元で囁く声。
 雪来は首を振って、その胸に顔を埋めた。 
「……まいったな」
 少し間があって、苦笑交じりの声がした。
「………こんなに重症だとは思わなかった。……もう…お前のこと以外は、何も考えられくなりそうだ」
「み…かみさん……」
 たまらなくなった。この身体に触れたくて、もっと触れたくて仕方なかった。心ごと触って感じあいたい。
「御守さん……好き…、すごい…大好き……」
 雪来は御守の身体を抱き締めた。もう離したくない。もう――離れ離れは耐えられない。
「こういうところは、子供のままだな」
 呆れたような声がして、背中に回された腕に力強く抱き締められた。


                    三


「………全寮制の大学でよかったと、一瞬マジで思っちゃった……」
 窓の外に広がるオフィス街、そのビルの隙間を縫うようにしてのぞく明け方の空を見ながら、雪来は冗談交じりに呟いた。
「御守さんと一緒に暮らしたら、身体がもたないってことが、よぉく判った」
 隣で書類に眼を落としている御守は、横顔だけで苦笑を返す。その御守の背に自分の背を預け、雪来は膝を立てて座っていた。
 疲れ果てて熟睡していた雪来が眼を覚ますと、御守はすでに起きていて、情事の後のソファに座ったまま、静かに書類と対峙していた。
「すごいね……専務室って泊りオッケーなんだ」
「そうだな、当分ここに泊っていくか」
 書類から眼も上げずに御守が軽く言う。
「いいね、それ。……私は、あなたの仕事してるとこずっと見てて……」
「疲れたらお茶を煎れてくれるんだろ」
「うん、そうそう」
 冗談を言い合いながら、少しだけ寂しくなっていた。夜が明ければ、再び九州へ帰らなければならない。そして、今度東京に来る時は、寮生活が始まってしまう。
「……涼二の言い出したことだからな」
 ふいに御守が口を開いた。
「大学のことだよ………、あいつはお前が大切で可愛いんだ。だから言うとおりにしてやろう」
「うん………知ってる」
 雪来は肩の力を抜き、御守の背に体重をかけた。その背にそっと腕が回される。
「俺にしてみれば、お前の寮生活の方が心配でしょうがない、どの男もお前を狙っている気がしてならない」
 思わず吹き出していた。
「あのさ、一応女子大なんだけど」
「でも、教師は男だろう」
「御守さん……」
 こんなことをいつから平気で言える人になったんだろう。
「……御守さん、変わったね」
「そうか?」
「上手くいえないけど、……御守さんを包んでた殻みたいなのが壊れて、本当のあなたが出てきた感じがするよ。……とても優しくて、心に余裕があるのがすごくわかる」
 御守は初めてはっきりと顔をあげ、振り返って雪来を見つめた。 
「お前が言うなら、そうなんだろうな」
 書類が床に落ち、ゆっくりと両腕で抱き締められた。
「………これからも、俺を見ていてくれるか」
「嫌だって言われても見ているよ」
「いつでも尋ねて来い、週末には必ず来いよ」
「体力勝負になりそうだね」
 御守が唇を耳に寄せ、低く何かを囁いた。雪来は少し驚いて、御守を見上げる。
「………本当に、変わったね」
 こんなこと……死んだって言いそうもない人なのに。
「も、一回、……聞かせて欲しいんだけど」
 その唇に、御守は軽く口づけた。
「早く大人になってくれ」
 額が触れて、視線が合った。
「………死ぬまで同じことを言ってやるよ」
 唇も触れて、すぐにキスは深くなった。

○前へ
●目次へ
エピローグ
fin