一


 H市の中心部にある、ターミナルステーション。
 飛行場から乗り継いだリムジンバスをそこで降りると、急速に寒さが這い上がってきた。
 御守はマフラーを締め直し、隣接するタクシー乗り場に向かった。
 H市のターミナルであるこの場所から、目的地までは一時間以上かかる。
―――アクセスの問題もあるか……。
 タクシーの中、御守は唇に手をやって思案した。
 広大な敷地を要するため、新副都市<東風新都>は山間部を整地して作られた。
 都市交通システムは整備されているものの、駅からのアクセスが不便なのは、昔も今も変わってはいない。
 流れる景色を目で追いながら、何時の間にか仕事のことに頭が向いている自分が滑稽だった。いや――結局、自分はこの仕事が好きなのだと、御守は思った。
 好きだから思考が自然と向かってしまう。デスクワークと会議続きの専務職より、自分には現場で悩む仕事の方が向いている。
 東京と比べたらまだ緑が多く残る市街地を抜けながら、灰色の空から冷たいものが落ちているのにようやく気がついていた。
 あれからすぐに退社して――急遽押さえた飛行機が、H市の空港に着いたのが三時だった。
 今はもう四時を大きく回っている。
 少なくとも、最終の新幹線が出るまでしか――自由になる時間はない。
「雪になりますかね」
 タクシーの運転手が呟いた。
 御守はそれには答えずに、これから自分が対峙する者のことを考えていた。
 三鷹庸介の来訪は、最後のヒントで、――そしてメッセージだった。
 御守はその意味を理解し、そして迷わずに空港へ車を飛ばした。
(――どうしても、行かれますか)
 長瀬が最後に見せた顔が、まだ苦く胸に滲んでいる。
 彼は机の上に、鮮やかなネイビーの宝石ケースをそっと置いた。御守にも見覚えがあった。それは有紀に贈ったはずの、深海の色をした石を納めたケースだった。
(――ブランドの買取専門店……簡単に言えば質屋から出てきました。昨日の時点で、二百万で買い取られたそうです。)
 随分手回しがいいんだな。御守がそう言うと、長瀬はわずかにうつむいた。
(――こうなると思って、あらかじめ連合協会の方に照会を掛けていましたから。おかしいと思われませんでしたか?あの子供は、今まであれだけ蓮さんに色々買ってもらったものを……二度と身につけた事がなかったでしょう。)
 確かにそうだった。
 沢山の服を買ってやった。けれど――有紀は、それを一度着ると、二度と袖を通そうとはしなかった。部屋ではいつも、ニットかトレーナー、そしてジーンズ姿だった。
 買ってやったものをどこへしまっていたのか、それさえも御守は知らなかった。
「どこまで行きましょう?」
 少し訛りのある運転手の声で、ようやく御守は現実に立ち返った。
 タクシーは、すでに東風新都の内部に滑り込んでいる。
 整備されたまっすぐな道路。両サイドには高層の分譲住宅。そして、銀行、スーパー、公民館……建設中の建物。
 御守が最後に見た光景よりも、さらに進化した街がそこに広がっていた。
 みぞれが混じったような雨。それが太い軌跡を引いて窓ガラスに滴っている。
 灰色の天候のせいか街は寂れ、どこもかしこも新しい匂いが残っているにも関わらず、廃墟のような虚ろさがあった。
「……この先に行ってくれ、教会があるはずだ」
 タクシーは指示どおりにスピードを速め、目的の建物はすぐに全景を露わにした。
 黒い三角屋根。灰色で、どこか朽ちた感のある壁面。白茶けたクロス。
 真新しい戸建分譲住宅が居並ぶ中、その建物だけ場違いに貧相に見えた。出入り口の鉄柵は錆付いて、ところどころ塗装が剥げ落ちている。
 タクシーを待たせたまま、用意していた傘を広げると、御守はその前に降り立った。
 門扉は開け放たれていた。入り口に錆びたプレートがかかっており、「美倉坂教会」と硬い文体で表示されている。
 苦く辛い思い出がいちどきに膨らんで広がり、御守は身動きが取れなくなった。
 突然、泥が飛散する音が忙しく響いた。
 鉄柵の内側の茂みから、ふいに、幼げな女の子が飛び出してくる。
 御守の腰までしか背のない少女は、門扉の前に立つ来客に気づいて脚を止めた。
 長い髪を二つに分け、きれいに編みこみがされている。驚いた顔が、じっと御守を見上げている。
「おじさん……誰?」
「人を探しているんだ」
 御守は微笑して、その少女に傘をかざした。
「……雪来というんだ、今、いるかな」
「ユキちゃんなら、中にいるよ」
「そうか」
 少女の胸に、クルスのネックレスが光っていた。ゴシック調のデザインで、御守はそのブランド名まで把握していた。
「きれいなネックレスだね」
 御守がそう言うと、少女は白い歯を見せて笑った。
「ユキちゃんのお土産なの、ユキちゃん、他にもいっぱいお土産持って帰ってくれたんだよ」
「………そうか」
「みんなで分けて、それから余ったものは、お金に換えて寄付するの、独り占めはいけないことだから」
「そうだね」
 少女の後について歩きながら、御守は雪来が――まだ有紀だった時、二十万もの大金をいきなり寄付したことを思い出していた。
「その言葉は……美倉坂神父の教えなんだね」
 あの時もどこかで一度聞いた台詞だと思っていた。それでも美倉坂涼二にたどり着かなかったのは、よほど自分の中で避け続けていた思い出だったからなのだろう。
「うん、……神父様、まだご病気なの、でも、もうすぐ帰ってくるの」
 少女は生き生きとした目で振り返った。
「そうしたら、全部上手くいくの。みんなここで暮らせるし、ユキちゃんも、遠くのおうちに移らなくてすむの」
「ナミ、何やってるの」
 御守の目の前で教会の扉が開いた。声だけですぐに判った。
 均整の取れたしなやかな身体が、扉の向こうで立ちすくんだままになっている。
 白いシャツにグレーのセーターを重ね、褪せたジーンズを穿いた姿は、どう見ても高校生以上にしか見えない。
 一瞬呆けたような顔になった雪来は、けれどすぐに静かな笑みを浮かべ、御守の前に立つ少女を促した。
「ナミ、部屋に入って、……風邪を引くよ」
「うん」
 少女は一瞬御守を見上げ、にっこりと笑う。そして、そのままきびすを返し、開け放たれたままの扉の中に消えていった。
 雨の中、雪来は泥濘に足を踏み込んで近づいてきた。
 けれど御守からは距離を置いたまま、そこで足を止めて唇を開いた。
「……涼二さんの退院が決まったって連絡があったから、………一日早いけど、帰ることにしたの」
 静かな声がそう言った。表情の読めない瞳は、下を向いたままになっている。
「クリスマスは、教会の行事が色々あってね、……言ったでしょ、忙しいシーズンだって」
 冷たい雨が、女だった少女の髪を濡らし、その肩先に吸い込まれていく。
 御守は傘を近づけたが、柔らかな髪を振って拒否された。
 鼻筋を伝う雨を払おうともせず、少女はうつむいたままで続けた。
「……あなたには、理光不動産の取締役を辞任してもらうよ。それから、……株だっけ、それも売ってもらわないといけないのかな」
 笑っているのか、泣いているのか。その表情からは読み取れない。
「……言ったよね……私がもう一度海に戻るには、王子様を殺すしかないんだって、……私は童話の人魚姫みたいにお人よしじゃない、渡されたナイフを捨てるほど優しくもない」
 御守は何も言えなかった。傘を下ろしたまま、髪を滑り、額に流れる冷たい雫を受けていた。
「ここが閉鎖されれば、みんなばらばらの施設に送られてしまう。私は……就職先の寮に入って、工場の仕事をすることになってる。……私……ここを、出て行きたくない…みんなだってそう」
「…………」
 それで紳司の誘いに乗ったのか、――その言葉は、胸に浮かんだだけですぐに消えた。
 雪来は、玲瓏な眼を薄くすがめた。
「私、あなたが憎かった」
 初めて聞くような口調だった。大人びた、女のような声だった。
「あなたはね、私の一番大切なものを汚したの」
「………」
「……子供の頃、入っちゃいけないって言われてた懺悔室で……私、見てしまったから」
「…………」
「あなたと……あなたが、忘れられないって言った人を」
 さすがに御守は、もの苦しい悔悟で胸が詰まり、眼を閉じた。
 雪来が何を見たのか、考えるまでもなかった。
 女との逢瀬も、別れも、全てがあの部屋で行われたのだから。
「……許せなかった、あなたは……汚したの、この教会を、私の大切な人たちを。……神様の前で、やってはいけないことをしてしまったのよ」
 そこまで言うと、初めて雪来は顔を上げ、御守を見つめた。
 見知らぬ他人を見るような、突き放したような眼差しだった。
「もう知ってるよね、私は十四歳で、色んな法律では、あなたのしたことは立派な犯罪になるんだってこと。私の保護者は涼二さんだよ。あなたが、数年前、残酷なやり方で傷つけた、涼二さんなんだよ」
「…………」
「私が話したらおしまいってこと。涼二さんだって、さすがに怒るよね、自分の婚約者を奪った男に、今度は娘まで奪われたんだもの」
「…………」
「……悪いけど…証拠は残してるから、テープとか色々……」
 雨が激しくなる。雪来の髪は濡れていた。幾筋もの雫が零れ、その顔を濡らしている。
 御守は着ていた皮製の上着を脱いだ。
「私が話せば全ては終わり……訴えたら、あなたの社会的な立場はなくなるよね。……その意味、わかる?」
「どうでもいいが、風邪を引くぞ」
 ゆっくりと雪来の傍に歩み寄る。は、と息を引き、硬直した少女の頭に、御守は、脱いだ上着を、そのまま掛けてやった。
 指が髪に触れた刹那、少女の身体がびくっと、痙攣でもするように動く。
 うつむいたその瞳は、じっと下を向いたまま、動かなくなった。
「……意味、判ってる?」
 蒼ざめた唇が、同じ言葉を繰り返す。
「判ってるよ」
 御守は短く、それに答えた。
「安心しろ、……もう、とっくに腹は括っている」
 ぽん、と上着越しに頭を叩いた。
 弾かれたように雪来の顔が上がる。
 大人びて見える――けれど、はっきりと幼さが透けて見える瞳。愛しさがこみげ、その感情だけで苦しくなった。
「お前が自分を責めることは何もない、俺はな、…それだけを言いに来たんだ」
 髪から流れてきた雨粒が視界を濁らせた。
 御守はその雫ごと落ちてきた前髪を払った。
「言っておくが、お前を抱いたことを後悔しているわけじゃない、まぁ、確かに相当驚きはしたし、自分の迂闊さに腹は立ったがな。……でも、そんなもので、お前への感情まで、変わってしまうとは思っていない」
「…………」
 雪来は、自分の頭に被せられたコートを手に取って下ろした。
「………返す」
 寒さなのか、差し出された手がかすかに震えている。
 霙交じりの雨。吐く息も白く濁るほどの極寒だった。
 御守は首を振った。
「それは、やる。売ろうがリメイクしようが、」
 古着をリメイクするのが得意なんだ、そう言って笑った雪来の声がふいに思い出されて、御守は思わず苦笑していた。
「お前の好きにしろ、………じゃあな」
 背を向けて歩き出す。待たせているタクシーまで歩きながら、これは罰だ――と思っていた。
(――いつか、罰が下るわ、私にも……あなたにも……)
 黒衣の女の、その言葉通りの結末だった。
 女との関係は数年前、東風新都の土地買収にあたり、御守が美倉坂教会に頻繁に出入りするようになったことからはじまった。
 孤児院を擁した教会の買収は、地元住民からの反対も多かった。このまま残し、地域交流の場として活用させようと言う意見が現場の多数派を占めており、御守もそうするつもりだった。
 けれどそれを隠したまま、御守は――自分の立場を利用して、美しい修道女を思うがままに蹂躙する途を選択したのだ。
 その理由はたった一つ。けれどその時の御守には判らなかった。
―――今なら、判る………。
 タクシーに乗り、飛行場までと、短く告げると、御守は重苦しい思いで眼を閉じた。
 理由は一つ、女の婚約者――美倉坂涼二に心を許しすぎたことだ。
 美倉坂涼二。
 真直ぐな黒い瞳を持つ聖職者。
 誰もがあっさりと好条件の買収を飲んだ中、ただ一人、立ち退きを拒否し続けた男。
 立ち退きを迫る者と拒否する者。
 立場は対極だったが、御守は、美倉坂涼二の人柄に惹かれた。
 年が近いこともあって、すぐに気が合い、仕事を離れたところで親しく語り合うようになった。
 そして……相手が神父だという誘いも相まって、死んだ姉のことまで打ち明けてしまったのだ。忘れもしない、あの懺悔室で、苦しさにかられ、全てを吐露してしまった。
――そして、話を聞き終えた美倉坂涼二は、きっぱりと言った。
 濁りのない、まっすぐな眼差しで。
(―――あなたは、お姉様に、恋をしていたのですよ)
 自分でも無意識に忘れようてしていたあの夏の日のキスと、劣情。
 美倉坂涼二は、それをずばり、と言い当てた。
 その感情ゆえに、姉の死に責任を抱いていることを――何の躊躇もなく言い当てた。
 雪来は――おそらく、その話も聞いていたのだ。だから、写真の女を姉だとすぐに見抜いたのだ。海から見上げた光景とは――なんと皮肉で残酷な例えだろう。
―――たった一夜の感情の昂ぶりが……そもそも全ての過ちだった。
 御守は当時の思いを邂逅し、苦く唇を噛みしめた。
 いったんは美倉坂に心を開き、涙ながらに全てを受け入れようとしたものの、その翌日から後悔が始った。
 神父の態度が、微妙に変化したように感じられたのだ。
 どこか汚いものを見るような眼で見られ、避けられているような気分になった。――それは今思えば被害妄想に近いものだったのかもしれない。自分と違い、婚約者の手すら握らない清廉潔白な男への猛烈な敵対心と嫉妬だったのかもしれない――けれど――御守は自分の秘密を打ち明けてしまったことを痛烈に悔いた。そして、自分と同じ汚いところまで、この気高い精神の持ち主を――貶めてやろうと思ってしまった――。
 男が、精神的な結びつきがあると信じきっていたその美しい婚約者――教会に住んでいた修道女を、無理矢理自分のものにすることによって……。
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