十


 翌朝、一時間の仮眠から目覚めた御守は、すぐに<東風新都>の資料を手繰り始めた。
 結局昨日は一日、欠陥マンションの対応に奔走することを余儀なくされた。明け方まで電話を受け続け、そしてプレゼンルームで仮眠をとったのが午前五時。
 六時に目覚め、すぐに顔を洗ってデスクのパソコンを起動させた。
 明日に迫った取締役会議。昨日のトラブルのせいで、その準備がまだ、十分にできていない。
<東風新都>。
 取締役会で、この話題が出ることは避けられないだろう。
 それまでに、本社としての対応の雛型だけは用意しておきたい。
 企画担当専務の御守には無論担当外の案件だが、元プロジェクトリーダーとしての責任を追及されることは予想できたし、北條監査役をはじめとする対立一派がここぞとばかりに非難の矛先を向けてくることも考えられる。
 北條監査役は、御守の取締役就任当時、副社長取締役をしていた男だった。
 会長の実子という理由だけで決定された若すぎる取締役の誕生に、一番難色を示していた人物でもあった。
 今回、取締役会を招集したのがあの男なら――何か、仇敵を攻撃する口実でも、見つけたのかもしれない。
 大したことはできない――と、長瀬には言ってみたものの、紳司の動きも気にはなっていた。
 昼食時間に有紀が来ることになっているのも、余計に御守を忙しない気持ちにさせている。
 来客をシャットアウトさせ、当時の書類とパソコンのデータに没頭し、気がつくとすでに十一時を過ぎていた。
「……ふぅ」
 疲労を払うようにネクタイをわずかに緩め、電話があれば回すよう、秘書室への回線を開いた。
「……よろしいですか」
 それを待っていたようにノックがして、聞こえてきたのは長瀬の声だった。
「入れ」
 こめかみを抑えながら御守は言った。昨日から続いた疲労が、頭の芯まで蓄積している。
 すぐに長瀬は入ってきた。座ったままの秘書を見上げ、御守はわずかに眉をひそめた。
 長瀬の顔が、いつも以上に怖いものになっている。
 デスクの前に歩み寄ると、長瀬はスーツのポケットから数枚の写真を取り出した。
 机の上に無造作に置かれたそれを、まだ取締役会のことから意識が離れないままに――御守は、何気なく手に取った。
「………?」
 それは有紀だった。競泳用の水着を着て、スイミングキャップを被っている。背景には鮮やかな青い水面。
 御守は写真の束を持ち直した。
 二枚目は、その有紀の横顔が、誰かと口づけを交わす寸前のものだった。
 スイミングキャップを外した頭。髪が、濡れたまま額に張り付いている。
 有紀は笑っていた。ふざけたような快活な笑みで、唇から白い歯が零れている。
「………」
 御守のまるで知らない笑顔だった。
 相手の顔は髪で影になっていてよくわからない。日に焼けた逞しい肩と腕を持った男だった。
 最初に行った私営プールで有紀に絡んでいた青年だな、――とすぐに判った。
 三枚目、それはキスの後なのか、前なのか、――二人はじゃれあうように抱き合っていた。
 やはり有紀は笑っていた。腕を男の胸に当て、相手を押しのけているようにも見えるが、その表情が本気で拒否していないことは明らかだった。
「………言おうか言うまいか、迷いましたが」
 長瀬は冷静な口調で言った。
「あなたの命令に背いたのは初めてですからね。――実は、以前から……私は、あの子供の周辺を調べていたんです、松島組の件だけでなく」
 御守は無言で長瀬を見上げた。
 ビジネスで覚えた腹芸が染み付いてしまっている。こういう時自分の表情を冷静に保てるのは、もう癖のようなものだ。
「やはり、連城有紀は、松島組の幹部の一人――あっちの世界では有名な男ですがね、その男の、情婦のようなことをやっていたらしい」
「………」
 長瀬の白目が多い眼が、威嚇するように細くなる。
「……それで?」
 御守は表情を変えずに聞いた。
 そのことだけは、長瀬の情報にミスがある。御守だけが、有紀の潔白を知っている。
 けれども長瀬の目も、わずかも気後れてはいなかった。
「実は、今朝初めて、連城有紀本人のまともな写真を入手しました。前の写真がひどいものでしたから……念のため確認するだけのつもりでしたがね、驚きましたよ」
 長瀬の眼がますます細くなった。
「背格好は似ていても、よく見ればすぐに判る、……別人ですよ」
 長瀬の言った言葉の意味が、一瞬理解できなかった。
 四枚目の写真――御守は、無言でそれを手に取り、くいいるように――友達四人の輪の中で控えめに笑っている――有紀ではない、見知らぬ女の顔を見た。
「……どういうことだ」
 まだ……その意味が、理解しきれない。
「あの子は、連城家の養女になった<有紀>という女ではないんです。本当の意味で、他人のカードを勝手に使い、スイミングクラブに出入りしている……全く別の女だったんです」
「………」
「多分、あなたを安心させるために、会員制のプールにわざわざ呼び出したんでしょうね。………私もうかつでしたが」
「………」
 写真はまだあるようだった。
 御守は下の方に重なっていた写真を引き出し、手に取った。
 どこかで見た顔の男が、有紀と一緒に車に乗り込もうとしている場面だった。
「あなたの行きつけのブティックの店員ですよ、……この子を初めて連れて行った店の」
「ああ……」
 ようやく思い出していた。ロシアの血が混じっているという玲瓏な店長。
 何度かパーティで顔を合わせた縁もあって、いつのまにか、御用達のような店になっていた。
 このきれいな顔をした青年は――確か、店長の弟だったはずだ。
 最後の写真には、その青年に肩を抱かれた有紀が、神妙な顔をしてうつむいている――そんな光景が映し出されていた。
 場所は――レストランか、ホテルのロビーか、そんな感じだ。
「おそらく、この青年から桜子さんのことを聞いたんじゃないかと思います。……店長のサージャ嶋村は、一時期、御守会長の愛人でしたからね。桜子さんの話を聞かされていても、不思議じゃない」
「…………」
「サージャ嶋村が会長に無残に棄てられたのは有名な話です。彼女の弟は――この写真に写っている青年は、それであなたや御守会長を恨んでいる、……私は、あの店への出入りも、気をつけた方がいいと忠告したはずですよ」
 あり得る話かもしれない。御守は嘆息して額を押さえ、肘をついて頭を支えた。
「……長瀬、あの子は何者だ」
 苦い思いでようやく聴いた。
 思えば、最初から不自然な出会いだった。
 そのことに――疑問を覚えなかったわけではない。でも何故か受け入れてしまった。怪しさを感じても抵抗できない何かがあった。
「早急に調べさせていますがね、今のところ、素性を示す手がかりはありません」
「そうか」
―――何故だろう。
 御守は考え続けていた。何故自分は――「有紀」の誘いに抗し切れなかったのだろうか。
 その時デスクの電話が鳴った。
 着信は、それが秘書室からだということを示していた。有紀が来たのかもしれない。
 長瀬は苦い口調で付け加えた。
「あの子は今、渋谷のウィークリーマンションに住んでいます。住む場所がないなんて嘘ですよ。昼間、ちょくちょくそのマンションに出入りしている。………言っておきますが、そこらにあるような安いマンションじゃありません、一泊何万もするような豪華なものです。まだ裏は取れていませんが、……ただのガキじゃないですよ、あの子は。必ずバックがついている」
 御守は受話器を取った。来客が有紀なら、正直どう対応すべきか判らなかった。
『……専務、今、来客が来られていますが、…長瀬さんがおられませんので、どういたしましょう』
 聞きなれた女性秘書の声がした。来客は全て長瀬のチェックを受けるようになっている。
「長瀬はここにいる、……誰だ」
『リビングサポートの御守紳司様です』
 紳司。
―――…ことん、と胸の中でなにかかが符号したような気がした。
 御守は秘書に指示を出し、立ち上がりながら受話器を置いた。
「長瀬、隣室のプレゼンルームに控えていろ。紳司の奴、何か仕掛けてくる気かもしれん」
 長瀬はすでに察していたのか無言でうなずき、意外な敏捷さで隣室に姿を消した。


                 十一


 入ってきた紳司は、ライトグレーのスーツを着て、オレンジ色のタイを締めていた。
 明るい色彩のスーツは、彼の柔らかな容姿によく似合っている。
 眼鏡の下の目は、最初から挑発的で、そして優位に立つものの余裕が滲み出ていた。
 彼はソファに座り、脚を組み、煙草を取り出して火を点けた。
「……北條監査役と、最近親密に会っているらしいな」
 自身のデスクに座ったまま、御守は探るように切り出した。
「さすが、蓮、情報が早いね。……これも長瀬のおかげってやつかな」
 紳司はそう言うと、含んでいた煙を吐きだす。御守は眉をしかめながら言った。
「そんな暇があったら、例の件をなんとかしたらどうだ。欠陥住宅が社会的に問題になっている今、住民の苦情を放置したままにしておけば、理光グループのイメージに関わる」
「……しょうがないじゃない、何しろ売れないんだ、分譲住宅が。そこをなんとかしなきゃ、やりようがない」
「だから」
「……だからさ、槍玉にあげられない前に、誰かが責任を取ればいいってことでしょ」
「……なんだと?」
 紳司は持っていた煙草を灰皿に押し付けた。
「あんたが責任者として作り上げた街だ、蓮、……あんたが責任を取って、取締役を辞任するんだ」
 紳司が何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
「その上で、分譲住宅の値段を下げることにしたよ。そうすれば住民も納得してくれるだろ、……なにしろ、会長のお坊ちゃまが退職なさるんだからな」
「ふざけるな」
 御守は一蹴した。
「俺は街の建設に関与したが、販売管理権はリビングサポートに完全に移譲している。…なんの関係もない俺が、どうして退職しなければならない」
「……それから」
 御守の言葉を全く無視して、紳司は立ち上がった。
「あんたが所有してる理光不動産の持ち株……半分でいいな、それで許してやるから、売却しろ」
 ポケットに手を入れ、上から見下ろすように言う。唯一御守に勝る身長の高さを誇示する癖は、学生時代から変わらない。
「何を言っている」
「俺が買い上げたいところだが、社内規則で特殊株主間の売買は禁止されているんでね。とにかくあんたには自身の株式を売却して、この理光グループの経営から一線を引いてもらう」
 御守はゆっくりと席を立った。
 まだ――紳司の思惑が掴みきれない。どう考えても無茶な要求。それを轟然と口に出来る根拠が判らない。
「何か、俺を脅迫するネタでも掴んだか、紳司」
 威嚇するように言うと、紳司はおどけたように両手を挙げた。
「おっと、………誤解するなよ、何も俺があんたを脅迫しようっていうんじゃないんだ。言っとくけど、今俺が言ったことは命令でも脅迫でもない、……蓮がこれからしなきゃならないことを、ご丁寧に教えてさしあげたまでのことだ」
「……なんだと?」
「どうせ隣には長瀬がいて、抜け目なく俺たちの会話を録音でもしてるんだろ?蓮の用心深さは大したものだよ、…でも、今回は下手をうったな」
 紳司の顔が、嬉しそうに歪んだ。
「あの子が例の神父と同じ人種だったからか?それにしても、随分無防備に信じ込んだものだ、こんなに簡単にことが運ぶなんて、簡単すぎて怖いくらいだ」
「………」
 やはりそうか。
 御守は冷えたものが背筋を滑り降りてくるのを感じた。
 そして眼が醒めたように、全ての疑問の答えを理解していた。
 どうして今まで気がつかなかったのか、その迂闊さが信じられないくらいだ。
 けれどまだ、紳司の自信を支えているものの正体が判らない。
 有紀と関係を結んだことを指しているのなら――確かにそれは格好のスキャンダルではあるが、だからといってそれだけで紳司の要求を鵜呑みにするほどのことでもない。
 本匠マユリは怒るだろうが、ある意味御守よりも打算的な彼女が、婚約を破棄することだけはないだろう。
 売春と言えば違法だが、自由恋愛であれば独身の御守に問題はない。――言い逃れる術はいくらでもあるし、加えて言うなら紳司のスキャンダラスな私生活は御守の比ではないはずだ。
 御守は冷静に、紳司を見上げた。
 けれど、紳司の目は、依然として、見下すような、憐れむような――そんな傲慢な色を浮かべたままになっている。
「次の取締役会で、あんたは責任を取って自ら辞職することになる、もうすぐ本当の脅迫者があんたの前に現れる、それを楽しみに待っておくんだな」
 年下の従兄弟は、それだけ言い捨てると、肩をそびやかして退室した。
「………一体、何を掴んでるんですかね」
 入れ違いに隣室から出てきた長瀬も、さすがに表情が冴えなかった。
「長瀬、至急調べて欲しいことがある」
 御守は振り返らずに言った。
 視線は、机の上に広げられたままになっている<東風新都>の竣工予定図に釘付けになっている。
「……美倉坂教会のことだが」
 どうして今まで気がつかなかったのだろう。どこかで見た顔だと思ったのに―――実際見ていたのだ、御守自身が。
「教会には身寄りのない子供たちが沢山いただろう、美倉坂はあの教会で、養護施設もどきのことをやっていたはずだ、その施設はどうなった」
「海の楽園のことですね」
「…………」
 海の、楽園。
 御守は舌打ちして、眼を閉じた。
 ヒントはいたるところで提示されていた。御守がそれに気がつかなかっただけだ。
(―――私は……海から来たの。)
「現在、年長者がきりもりしてなんとかやっているそうですよ。ただし大半は里子に出たり、就労施設に入ったりしています。美倉坂も、教会の経営が行き詰まって、いずれは施設を閉鎖しなければならないことを覚悟していたのでしょうが」
 それが?と何か問いたげな視線を背後に感じた。
「……その施設に、」
 ようやく振り返った御守が、そう言いかけた時だった。
 デスクの電話が再び鳴った。着信は秘書室からだった。
―――有紀か、
 時計は十二時直前を指していた。御守は緊張した。


             十一


 ロビーで背を向けたまま立っていた男は、背後に足音を感じたのか、目をすがめて振り返った。
 目元が鋭く、引き締まった顔をしている。
 身体は、衣服の上からでもわかるほどの筋肉質で、顔だけが小さい。少し長い髪は赤茶けて、見るからに痛んでいた。
 つい先ほど写真で見た顔だった。水泳をしているというなら、塩素で髪が痛んでいるのかもしれない。
「………あんただったのか……」
 男はそう言うと、噛み付くように御守を睨み、わずかに唇を震わせた。
「三鷹庸介君と言ったな」
 御守は落ち着いた口調で言った。
「有紀の代理だと言ったが……俺に何か用なのか」
「伝言………頼まれたから」
 三鷹は、怒りを滲ませた目でうつむき、ほとんど聞き取れないような声で言った。
「急用ができて、……帰らなきゃいけなくなったから……これでお別れにしようってさ」
 御守がそれに問い掛けようとした時、ふいに目の前の男が俊敏に動いた。
 気配を察し、素早く防御体勢を取る。飛んできた拳は鼻先を掠めて流れていった。
「くそっ」
 さらに振りかぶる三鷹庸介の腕を掴み、御守は厳しく見下ろした。
「やめておけ、ここは会社だ、すぐに警察が飛んでくるぞ」
「あんた……、わかってんのか、自分が何をやったのか」
 眉をしかめて見上げる瞳は、怒りと憤りのようなもので歪んでいる。
 御守はその腕をねじるようにして、パーティションで仕切られた接待用のスペースに連れて行った。長瀬が少し離れた所から様子を伺っている。
「離せっ」
 仕切られた影に入ると、三鷹は激しく抵抗し、御守の腕を振り解いた。
「君は有紀の何だ、いや、本当の名前はなんと言うのか知らないが……彼女のことを知っているのか」
 御守は感情を殺しながら言った。
「何言ってんだ、おっさん、ユキは………ユキだろ」
 顔をしかめながら三鷹はうめいた。
「俺はあいつの幼馴染だ、俺が五つの時、まだ赤ちゃんだったあいつが入所してきてからの付き合いだよ、文句あるか」
「別にない、それで、お前たちはまだ一緒に住んでいるのか」
「……俺は、小五で遠縁の家に引き取られた。………ユキは、まだ残ってる」
「……H市にある……海の楽園にだな」
「知ってんなら聞くなよ」
 三鷹は威嚇するように睨みつけてきた。
「あんたの会社が、昔強引に立ち退かせようとした施設じゃねぇか、あんた、その頃からユキに眼ぇつけてやがったのかよ、この変態!」
「連城有紀というのなんだ、お前の友達か」
 御守は構わずに聞いた。
 男の眉が、わずかに曇る。
「………そうだよ、中学の頃、プールで時々一緒になったんだ……今は、……色々やばいことに巻き込まれちまって……どこにいるか、知らねぇけど」
「あの会員証はどうやって手に入れた、盗んだのか」
「バカなこと言うな、もらったんだよ、ユキをプールに連れてってやりたくて、で、昔なじみのあいつに頼んだら、もう長いこと使ってないからって……あっさりカードくれたからさ」
「それは、有紀の姉のカードだ、どっちにしろ、他人名義のカードを使うのは違法だぞ」
「あんたがそれを言うのかよ」
 三鷹の目に、はっきりとした侮蔑の色が浮かんだ。
「あんた……、本当に何もわかってないのか?あんたのしたことだって立派な犯罪なんだぜ?俺がどうして、ずっとユキに手ぇ出さずに、黙って我慢してたと思ってんだ。あいつがまだほんの子供だったからじゃねぇか、それを……お前は、いい年しやがって」
 その剣幕に理解がついていかず、御守はわずかに逡巡した。
「確かに子供だが、……それほど深刻に考える年齢でもないだろう、十八なら立派な大人だ」
 初めて三鷹の顔から、猛々しかった表情が抜け落ちた。
「あんた………知らないのか」
「何をだ」
「………あいつ、まだ中学生なんだぜ」
「何?」
「背も高いし顔も大人びてるから、高校生でも通用するけどな、あいつ、まだ十四歳なんだ」
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