九


「降らなかったね」
 少し白んで来た窓の外を見つめながら、有紀は独り言のように呟いた。
「そうだな」
 ネクタイを締め直しながら、御守は答えた。
 五分前にかかってきた長瀬からの電話。
 まだ夜が明け切っていないにも係わらず、緊急の要件で、今からすぐ社に戻らなければならなかった。
「……今日は……多分、戻れそうもないが」
 建築中の高層マンションに、構造上の設計ミスが見つかったらしい。電話では詳しい事情は判らなかったが、おそらく今日一日、マスコミや入居予定者の対応に追われる事になるだろう。
 有紀はまだ上半身裸のままでいる。しどけなくベッドに座ったまま、どこか寂しげな背中を向けている。
「クリスマスまでには………降るといいね」
 その背中が呟いた。
「……雪が好きなのか」
「好きだよ、雪だるま作ったり、雪合戦したり…雪は楽しいことをいっぱい持ってきてくれる」
「子供みたいなことを言うんだな」
 無邪気な言い方に苦笑が漏れた。
「……私はね、雪の降る晩に生まれたんだって。例年にない大雪で、窓を開けたらすごく高く雪が積もってたって、…だから父さんがつけたくれた……ユキって」
「そうか」
「誕生日はいつも雪だったらいいと思ってた、でも……最近はそうもいかないね、暖冬とかでさ」
「………」
「今年は……やっぱり無理かなぁ」
 誕生日はいつなんだ、と聞こうとして止めた。
 結局は一緒にいてはやれない。
 今も、そしてこの先も。まだ若くそして未来のある娘に、こんな不自然な関係を強いることはできない。
 いつか、この日々を悔いることもあるだろう――引き止めないことが有紀のためなのだ。
―――そうだ、……有紀のためだ、
 御守は立ち上がり、上着を取りにクローゼットに向かった。
「………御守さんのこと、もっと知りたいなぁ…」
 その背に、追いすがった有紀が頬を摺り寄せてくる。
「私みたいな恋人、他にもいる?」
「いいや、…今はいない」
「昔はいた?」
「……いたかもな」
「その人と私、どちらが好き?」
「さぁな」
「ね、教えて。今まで……つき合った人の中で、誰が一番好き?」
 子供のような質問に、一瞬、先ほどまでの深刻な感情も忘れ、吹きだしそうになっていた。
「お前だよ」
 自分でも冗談なのか本気なのか判らない。
 取り出した上着を羽織って振り返った。―――けれど、見上げる有紀の顔は、わずかも笑ってはいなかった。
「……嘘つきだね、それに私は今までって言ったんだ、私は対象外だよ」
 その表情が、ひどく寂しそうに見えた。
 御守は、女の肩を引き寄せ、ゆるく抱き締めた。
「………言ってたじゃない」
 有紀の声は、それでも少しも安らいではいない。
「……あなたが、前、心の一部を奪われたって言った人……、その人はどうだったの」
「………」
 御守は、抱いている女の顔を見た。
 即座に否定しようとして――その目の真直ぐさに気おされていた。
「……もう、何年も前の話だ………あれは、」
 何を言っても言い訳になる。けれど、黙っていても、それはこの真摯な眼差しへの裏切りになるような気がした。
「あれは、恋愛のような綺麗なものじゃない……卑怯で、汚い関係だった」
 それだけ言って、その場を離れようとした。けれど、有紀の腕が、御守を掴んで離さない。
「それで?」
「……それだけだ、俺は女と別れ、逃げるように東京に戻った……そう、俺は逃げたんだ。女は多分、俺のことを恨んでいるだろう」
「……恨まれるようなことをしたの?その人に」
「………」
 御守は軽く唇を噛んだ。
 日常に紛れて思い出すことさえなかった過去。全ては理光リビングサポートに引き継がれ、自分の手の届かない所にいってしまったはずだったのに。
「……卑怯な、ことをした」
 うめくように呟いた。
―――最悪だった、…あの時の俺は、
 当時の激しさは消えうせて、今、胸に苦く残るのは悔恨と虚しさだけだ。
「……卑怯な、ことって?」
「卑怯なことだ、言葉どおりの意味だ」
 眉間に皺を刻んだまま、御守はかすかに嘆息した。
 回想の中の女はいつも、怜悧な顔をして、唇の端だけで笑んでいる。
 黒の法衣、胸に白の十字架の刺繍。
 一目で惹かれ、最初はむしろ強い尊敬の念さえ抱いていた。なのに――。
「無理矢理関係を強いて……そのプライトごとずたずたにしてやった………」
 どうして、あんな真似ができたのだろう、してしまったのだろう。
「……今、その人に会えたら、……どうするの?」
「………」
 御守はようやく現実に立ち戻り、有紀の顔を見つめた。
「何故、こだわる?」
 表情の読めない、曖昧な眼差しが逸らされる。
「……知りたいから、……それだけ」
「もう会わない、だからその質問には答えがない」
 そう言って、御守は有紀の腕を振りほどいた。
 女は無言のまま、ため息と共に背を向ける。
 窓辺に立つ、月光に消え入りそうな、儚い背中。
「……クリスマスイブが最後になると言ったが」
 その背を見ながら、御守は、なるべく感情を抑えた声で言った。
 こんな莫迦げたことで――残された時間を、不愉快なまま終らせたくはない。
「前にも言ったが、その日は抜けられない用事がある。少し早いが先に渡しておこう」
 そして、クローゼットの棚の奥から、用意していた包みを取り出した。
 本当は、今夜渡すつもりだった。けれど、おそらく今夜は、帰宅することはできないだろう。
 明日はもう二十三日、それが有紀と決めた別れの日だ。
 機嫌を直して欲しい、という意味もなくはなかったが、最後に気障に渡すよりは、今、さりげなく手渡しておきたかった。
 振り返った有紀は、まるで夢から覚めたような、どこか現実味のない顔をしていた。
「…私に……?」
 その傍に歩みより、華奢な手をすくい上げると、御守はパールカラーで装飾された小さな包みを、手のひらの上に載せてやった。
「開けてみろ、サイズはあっているはずなんだが」
「………」
 戸惑った指が、ゆっくりとブルーのリボンを解く。
 少し時間を気にしながら、それでも御守は、有紀が包みを解くのを待っていた。
 細い指が、ネイビー色をした開閉式のケースをおずおずと開ける。
 その途端、あざやかな深青が、淡い光を周囲に放った。
「……きれい……」
 見開かれた瞳に青い輝きが反射している。
 綺麗なのは有紀の方だ、と御守は思った。
 婚約者への形ばかりの贈り物。そのために値段だけで選んだ石だった。
 けれど届けられたそれを見た途端、もう有紀のことしか頭に浮かばなくなっていた。この石は有紀の色だった。水族館で、プールで――青い影に包まれていた美しい人魚のものだった。
「………こんなもの、もらっていいのかな……」
 しばらくしてから有紀は呟いた。
 その横顔が、場違いなほど寂しそうに見える。
「どういう意味だ?」 
 御守は女の顔を上げさせた。何か問いたげな瞳が見上げている。
「……指輪なんて、……いいのかなって思って」
「………」
 その躊躇の意味が子供すぎて、けれどそれが一層愛しさをかきてたる。
 御守はその感情を悟られないよう、女から手を離し、目を逸らしたまま、そっけなく言った。
「子供だってリングくらいするだろう。そう思って若者向けのゴシック調のデザインにしてもらったんだ、……これも報酬の内だと思ってくれ」
「そう………そうなんだ」
 そう小さく繰り返しながら、有紀は大きな石を飾ったリングを手にとり、それを自分の左手の中指に滑らせた。そのまま天井の照明にかざす。
 真摯な眼が、自分の指に光る石をじっと見つめ続けている。
「ありがとう」
 ふいに女は晴れやかに言った。
 ようやく正面から向けられた顔に、何かふっきれたような笑みが浮かんでいた。
「ありがとう、大切にする。見るたびに、御守さんのことを思い出すからね」
 御守は笑みを返そうとして、それが出来なくなっていることに気がついた。そして…言うのなら今しかないと思っていた台詞を口にした。
「そろそろ、言ってくれないか」
「何を?」
「………報酬額だ、お前への」
「………」
 有紀は途端に黙り込んだ。
 そして――うつむいたまま、女は暗い口調で呟いた。 
「明日……御守さんの仕事してるとこ……行っても、いい?」
「有紀、」
 何か言いかけた御守を、有紀は初めて激しく遮った。
「これって、ビジネスの話しだよね、だったらいいよね、職場に行って話をしても」
「………」
「……すぐに済むから」
 御守は嘆息した。自分が断りきれないことはもう判っていた。
「どうしてそんなに、俺の職場に来たがる」
「…仕事してるとこ……見たいから」
 指に絡めた石をいじりながら、少しふてくされたように有紀は呟く。
 そのうつむいた顔がとんでなく幼く見え、御守は少し戸惑った。
「あなたがお仕事していて、私はそれを見ているんだ。……疲れたら私がお茶を煎れてあげる……時々邪魔したりもする、あなたは邪険にするけど結局は仕事の手を止めてくれる……想像するだけで、すごく嬉しくなる」
「愉快な発想だが、現実はそんなに甘いもんじゃないぞ」
 言いながら、まだ御守の戸惑いは続いていた。
 時々、この女が、見た目以上に幼く感じられるのは何故なのだろう。
 子供を持ったことは無論ないが、もし子供でもいたら、こんな風に甘えてくるものなのだろうか。
「……来るなら昼にしてくれ、……食事くらいなら一緒にできるかもしれない」
 戸惑いを誤魔化すように、御守は手早く身支度を済ませた。
 マフラーを手にした時、近寄ってきた有紀の手に、コートの袖を掴まれていた。
 有紀は首をかしげ、少し寂しそうな眼で見上げている。
「………明日、会おう」
 求められるものが判って、御守はその唇に軽いキスをした。
「……もう一回…」
 呟きに誘われるように、もう一度、今度は少し長いキスをした。
「もう一回、」
 深く口付ける。けれど唇が離れると、有紀は同じことを繰り返した。
「…もう一回、」
 御守は女の肩を抱き、ゆるく引き離した。
「有紀、……とまらなくなりそうだ、止めておこう」
 胸の底で、黒衣の女が微笑している。
 もう一回、もう一回……。
―――この……不思議で、そして恐ろしい既視感は何なのだろう。
 御守はようやく理解していた。この娘を見るたびに思い出す面影――顔は似ても似つかないのに――どうしても被さる印象。
「……あなたは、それでも自制できる人だよ」
 有紀は淡い笑みを浮かべた眼でそう言った。
「どんなに私が頼んでも、ビジネスを優先する人でしょう?」
「………」
 それはある意味正解だった。
 仕事を軸として形成されてきた自分の人生。それを感情の流れのままに失うことはできない。
 メインバンクとの結びつきを強めることがビジネスの内なら、結婚は恋愛よりも優先させなければいけない問題だった。
 有紀がもう一度腕にすがってくる。御守は背中に腕を回し、うなじを支えて深く口づけた。
 抑制を失う寸前だった。深く長いキスの後でも、有紀は同じことを繰り返した。
「もう一回……」
「………」
 このキスが最後になるような気がした。
 御守は、自分にすがる華奢な身体を抱き締めて、もう一度その求めに応じた。
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