七



「……取締役会議に、紳司が出席するだと?」
 御守は眉をひそめて、デスクの前に立つ長瀬を見上げた。
「……何か、企みがあることだけは確かですね」
 長瀬は表情を変えずに軽く息を吐いた。
 北條監査役の招集で突然決った、12月24日の取締役会のことだ。
 御守は腕を組みなおし、背中を椅子の背もたれに預けた。
「いくら関連企業とはいえ、理光リビングサポートは別会社だ。紳司がうちの取締役会に顔を出す資格はないはずだが……」
「紳司さんは、北條監査役と、最近緊密にやりとりをしているようです。北條さんを通じて、何かアクションを起こすつもりなのかもしれない」
―――そんなことをしている暇があるのか、あいつは、
 思わず舌打ちが漏れていた。
 御守の方でも手を回して調べてみたが、<東風新都>の件で、紳司が特に動いている気配はない。御守が個人的なラインを通じてH市の議員に行った根回しも、その後からきれいに握りつぶされている。
「まぁ、……放っておけ、どうせ大した事はできやしない」
 今朝から、もう一度<東風新都>に係る当時の資料を読み直していたところだった。御守は手元の書類を持ち上げた。
「それと、早急に調べろと仰られた、美倉坂教会の件ですが」
 長瀬は静かな口調で切り出した。  
「言ってみろ」
 紳司に――「抵当権を押さえてるぜ」と、挑発的に言われたその日の内に、すでに長瀬に調査を命じていた。
「……土地建物の所有者、美倉坂涼二は現在入院中でした」
「なんだと?」
 思わず書類から顔を上げていた。
「胃癌だそうです。……入院先のH大付属病院を調べさせたところ、初期で、移転もなく、完治する見込みだそうですが……」
―――あの男が?
 男の年代に不釣合いな醜悪な病名。知らず眉が曇っていた。
 確かに病的で、神経の細そうな顔をしていた。でも――まさか。
「教会にとっては唯一の収入源が倒れたわけです……当然銀行への支払いは滞っています。そこを、理光リビングサポートが資金援助して」
「………」
「銀行に変わって、教会の土地建物の抵当権を得た、という形になっています。……紳司さんが、あの教会をどうするつもりなのか、皆目検討はつきませんがね」  
「………」
―――紳司の奴……。
 御守は、指を唇に当てて、眉をしかめた。
―――何を考えている?教会を取り壊して、何か別の企画をぶち上げるつもりなのか?
 あの時の、挑戦的な笑みは何だったのだろう。
 まるで――御守の弱味でも見つけた時のような、勝ち誇ったあの態度は。
 確かに、あの教会にも、あの神父にも格別な思い入れがある。しかし、だからと言って、それで何かが左右されるわけではない。
「それから、例の噂の件ですが」
 長瀬は抑揚のない声で続けた。
「少し調べて見ましたが、……桜子さんのことで、服毒自殺をほのめかす噂は、どこにも広がった形跡はありませんでした」
「ふん……」
「ただ……」
 長瀬の口調が、初めて澱んだ。
「当時、睡眠導入剤を多用して、入水したというのはどうやら本当の話のようです」
「…………」
「……言い難いのですが、蓮さん、あなたが、……少量を飲んでいたというのも、本当の話でした」
「………」
 驚きはなかった。有紀の話を聞いた時から、自分の中の不確かな記憶が、はっきりとした形を取り戻しつつあったから。
 不自然だっことが、全てひとつの事実に向かって収束していく。
 口に残った苦い味。濡れた唇。
 動かなかった手足、朦朧した意識。
 途切れた記憶に被さる父の声、枕元で話す医師――。
 そして、
(いけない、駄目、待って……待ちなさい……っ)
 桜子の声。
 あの日、異母姉が何を考え、何を決意して自分を海に誘ったのかは判らない。
 薬を飲ませたのも彼女だろう。けれど、そう叫んで自分を引きとめようとした刹那――あの人は、確かに、救おうとしてくれたのだ。
「当時の監察医に口を割らせましたよ、……この話は、蓮さんのお父様に、固く口止めされたそうです。……おそらく、あなたがショックを受けられてはいけないと……気を使われたのでしょうが」
「………」
「……問題は、どうしてそれを、あの娘が知ったか、ということですね」
 その思いは、御守も同じだった。
 ほんの一握りの……殆んど御守家の身内しか知らない話を――有紀が……知っている……?
「あの娘が、会長と接触していたという事ですかね」
「俺に聞いてどうする、さっさとそれを調べてみろ」
「………調べてみましょう」
 長瀬にしては、妙な間を置いた答え方だった。
 そのことを不信に思うより先に、ふいに紳司のなま白い顔が脳裏をよぎった。
 父が――もし、その話を紳司に漏らしていたとしたら?
 微妙な感情を振り切り、御守は再び書類に集中しようと試みた。
「……蓮さん、銀座スィートから宝石の直しが届いてます」
 普通なら用件が済んだここで、長瀬は部屋を出て行くはずだった。御守はけげんな眼で長瀬を見上げた。
「指のサイズを変更されたそうですね。……あの娘への贈り物ですか」
 そう言う長瀬は視線を下に向けたままだった。
 御守は不快な気持ちになって、眼を背けた。
「約束どおり、あの子とは今月の二十四日には別れる、それは手切れ金のようなものだ」
「もともとは、本匠のお嬢様のために注文された石でしたね」
「……何が言いたい?」
―――深入りしすぎです、蓮さん、
 長瀬の冷たい眼が、無言でそう言っているのが判る。
 けれど強面の男は何も言わず、ただ軽く息を吐いた。
「……とにかく身辺には十分注意してください、紳司さんに隙を見せないよう、気をつけてもらえればそれでいい」


                  八


 玄関の扉を開けると、待ちかねたように、しなやかな身体が飛びついてきた。
「おかえりっ」
―――まるで、子犬だな、
 そう思いながら、御守は有紀の抱擁を拒まずに抱きとめた。
「………冷たい、御守さんの身体……」
 コートに顔を埋めながら、有紀は呟く。
「外は随分冷えていた。……今夜あたり、降るかもしれないな」
 柔らかな髪に口づけをして、御守は優しく囁いた。
「待たせて悪かった……食事は?」
「まだ……でも、いらない」
「何か口にしないともたないぞ」
 その意味を察したのか、女の耳が匂うように赤らんだ。
「時間が……惜しくて……」
 有紀は少し恥ずかしそうにそう言うと、ふいにつま先立って御守の頬に軽くキスをした。
 そして、そのまま顔を伏せ、もう一度強く御守の身体を抱き締めた。
「あなたが食べたくて………お腹がぺこぺこ」
「有紀……」
 急速に欲望が膨らんで、自分でも戸惑うほどだった。
 御守は有紀の頭を抱いて顔を上げさせると、衝動を抑えるようにゆっくりとキスをした。
 抑制がきいたのは、ごくわずかで、すぐに呼吸さえも乱れていく。
 片手でコートと上着を脱ぎ捨てる。有紀の手が、それをもどかしく手伝う。
「……やらせて」
 ネクタイを解こうとした指を、上からゆるく押さえられた。
 誰かに服を脱がされるのは初めてだった。
 ネクタイが引き抜かれ、焦れるような指がシャツのボタンをひとつひとつ外していく。作業はまだ半ばだったが、堪りかねた御守は有紀の身体を抱き上げて寝室へ向かった。
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