六


 カーテン越しに差し込む淡い光が、室内を静かな青に染めていた。
 港が近いせいか、低く響くような汽笛の音が、時折室内にまで聞こえてくる。
「ああ……判った、緊急の取締役会だな、北條監査役の招集で、……そうか」
 寝ている女を起こさないよう、御守は携帯を口元に寄せた。
 電話の相手――長瀬は、おそらく今の状況を察しているのだろう。どこか忙しない口調に、彼らしい気遣いを感じないでもない。
「日時は……、ああ、大丈夫だ。でも、そんな日に会議もないだろうにな……。いや、俺は問題ない」
 指先に、寝乱れた長い髪が触れている。
 御守は、横目で、眠る女の横顔を見た。
 長瀬の声が、御守を現実に引き戻す。
「今日?……いや、迎えはいらない。時間通り社には着く」
 ほっと息を吐いて携帯を切った。
 ふと傍らを見ると、意識を失ったように眠っていた恋人の目蓋が、ようやくまぶしげな瞬きを繰り返し始めたところだった。
 御守は肘をついて、その傍らに身体を寄せた。
 心の一部が、もう、女の身体の中に掬い取られてしまっている――そんな気がする。
「眼が醒めたか」
 ゆっくりと焦点が合う瞳。それが一瞬驚いて、ふっと緩やかに潤みを帯びた。
「超びっくり………夢かと、思った……」
 嬉しそうに笑む唇。
「夢に見えるか」
「うーん、触らせて」
 いたずらっぽく伸びてきた指が、頬に、顎に、鼻筋に触れる。
「やったね、朝の御守さん、ゲット」
 そして、首に腕が回って、抱き締められた。
「……お前なぁ」
「嬉しいな、もう、死んでもいいくらい幸せ」
「…………」 
「ね、本当に夢じゃないよね、いつもみたいに、また夢だったら、どうしよう」
 その肩に、御守はそっと唇を寄せた。胸に溢れるこの感情を、どう言い表していいのか判らない。
「ばかだな、……あんな激しい夢をいつも見てるのか、お前は」
「……エッチ」
「親父だからな」
 有紀が顔を上げ、額が触れて、唇が軽く合わさった。
 そのまま深みにはまりそうな衝動。
 御守は強い抑制で、それに耐えた。ゆっくりと肩を引き、身体を離す。
「悪いな……そろそろここを出ないといけない、朝一で会議が入ってるんだ」
「そうなんだ……」
 昨夜、ホテルに場所を変えて、殆ど一晩中、繰り返し愛を教え込んだ身体。
 わずかでも別れることに、引き裂かれるような未練を感じる。
 けれど、――実際、仕事の予定は山積みだった。昨夜自宅でこなせなかった分、今朝から頑張って取り戻さなければならない。
「すぐ行くの?」
 そうしたかったが、見上げる眼差しに飲み込まれていた。
「……あと、十分くらいは、こうしていよう」
 甘いな、と思う。自分の甘さに呆れてしまう。でも今は――やはり、こうして、しばらくこのまま寄り添っていたい。
 有紀の首の下に腕を回し、御守はその肩を引き寄せた。
「お前の望みは、これで全部叶ったな」
 夜の闇があければ、窓からは海が見える。
「優しいなぁ、御守さんは」
 くすくすと有紀は笑った。
「……こんなに優しいって……思ってもみなかったな」
「…………」
 その口調に、まるで有紀が――ずっと以前から自分を知っていたような響きが込められているような気がして、御守はわずかに眉を寄せた。
「……前、俺の会社が作った街を見たと、お前は確か、そう言ったな」
「……そうだっけ」
「それは、H市の東風新都のことか」
「……そうだったかなぁ」
「おい、有紀」
 それには答えず、有紀は御守の腕を抱いて、その指先に口付けた。
「………ずっと、迷ってたんだ……私」
 そのまま、ぽつりと呟いた。
 それが不自然なほど寂しげだったので、御守は言葉を失っていた。
「………あなたが私を恋人にしてくれたら、その後、私はどうしようって……ずっと、迷ってた……」
「……迷う……?」
―――何を?
「……だから、抱いて欲しかったけど、……そうならない方がいいかもしれないとも思ってた。……複雑な女心、理解できる?」
「俺が結婚するからか、他の女と」
「……そうねぇ……それもあるけど、そればかりでもない」
 御守はいぶかしく眉を寄せた。こんな問いかけを続ける有紀の真意が読みきれない。
「判らないな、さっきからお前、何が言いたいんだ」
「さぁ……何が言いたいんでしょう」
「…………」
 わずかな沈黙。御守は不思議な気持ちで胸に寄り添う女を見つめた。
 今こうして抱いている女が、もう理解できなくなっている。
 あれほど深く感じ合えて、これ以上はないほどに求め合ったのは、ほんの少し前のことなのに。
「お前………クリスマスには、戻る場所があると言ったな」
「………うん…」
 曖昧にうなずいたまま、有紀は口を開こうとしない。
「さっき長瀬から電話があって……クリスマスイブに、大切な会議が入ることになった。多分、その日は会ってやれない。……前日で最後になる、それでいいのか」
 約束の期限まで、後――― 一週間程度しかない。
「………お前さえよければ…これからも」
「これからも何?それって、愛人の本契約?」
 無邪気な言葉が返ってくる。けれど、見上げる眼は、少しも笑ってはいなかった。
―――俺が、面倒みてやろうか、
 御守はそう言おうとしていた。
 そして、有紀の眼差しを見て、その言葉の持つ卑劣さに気がついた。
 純粋に、女の行く末が心配だった。けれど――結婚する自分にとって、それは本当の意味で、有紀に愛人になれ、という意味なのかもしれない。
「……いいよ、お金さえくれたら。このまま傍にいてあげても」
「…………」
「お金で割り切ろうよ、その方が気が楽じゃん」
「…………」
 眼を逸らしたまま、笑顔で続ける有紀の横顔。口から出る言葉が本意ではないのは、すぐに判る。
 けれど、御守は、その言葉を否定することも拒否することもできなかった。
 苦い思いで、気づかないわけにはいかなった。
 結局は―――それが、一番いいことなのだと。
「……いや、やはりクリスマスには別れよう。……最初の希望どおり、いくらでもふっかけてくれ」
 言いながら、胸が軋むような苦痛を感じる。
「ねぇ、御守さん」
 ふいに有紀は身体を起こし、仰向けになっている御守の上に、身体を乗せた。
 じっと見下ろしている瞳は、調度逆光になっていて表情が捉えにくい。
「人魚姫の話って……知ってる?」
 囁くような声だった。
「アンデルセンの……?」
――――なんだ……?
 御守は眉をひそめたまま、身体を拘束するように被さる女を、じっと見上げた。
「私はね………海から来たの」
「………?」
 深海の青みのような、青白い室内。
 有紀の顔が、ゆらり、と波間で揺れたような気がした。
「子供の頃ね、私はずっと、海の外へ出てみたくてしょうがなかった。だから月の明るい夜、こっそりと………外の世界をのぞいてみたの」
「………有紀、ふざけているなら、」
 伸ばそうとした腕を、意外に強い力で押し戻された。
「そこで、私は、王子様に一目ぼれをしてしまった。それ以来、毎晩、夢見るほどに、王子様に恋焦がれたの」
「………」
 有紀が何を言いたいのか判らなかったが、とりあえず話に付き合ってやろうと思った。
「……人魚姫は、王子を嵐の海から助けたんだろう」
「そう……」
「お前はなんなんだ、お前が人魚姫のつもりなら、王子は誰だ」
 静かな眼差しが見下ろしている。
―――俺………?
 御守は失笑しそうになった。身体は大人びていても、心は全くの子供だな、と思った。
「じゃあ、お前は俺を助けてくれなきゃな」
「だから、助けたよ」
「……なにからだ」
「わからない?」
 表情の読めない曖昧な瞳。そして、有紀はゆっくりと言った。
「……お姉さんは自殺したの、……あなたが、見殺しにしたわけじゃない」
 自分の中を流れる血が、ゆっくりと冷えていくのを御守は感じた。
「なん……だと…?」
「海に入る前、桜子さんは薬を飲んでいたんだよ……大量の睡眠導入剤……あなたも……飲んだはずだよ、ほんの少しだったけど、だから、身体が自由に動かなかったんだと思う」
「…………」
「お姉さんはね、あなたを連れて自殺するつもりだったの。あの人は、お母さんの結婚や、転校や、受験の失敗とかで……いろんな意味で、疲れていたから」
「……」
「だから、あなたが過去を思い出して苦しむことはないの……、もう、これ以上」
「なん……で、……」
 ほとんど聞き取れないような声で御守は呟いた。
 知るはずがない、こんな子供が――二十年近くも前のことを。
 しかも、――――御守でさえ知らない――そんなことを。
「私は人魚だから」
 有紀は微笑した。
「私は見たの、そう言ったでしょ……海から顔を出した時に」
――――これは、夢か?
 それとも性質の悪い冗談なのか?
「結婚しないで、御守さん」
「…………」
 冗談なのか、本気なのか。
 煌く瞳からは読みきれない。
「私のものになって、御守さん」
「……有紀、」
「人魚はね、王子様を手に入れないと、海の泡になってしまうの」
「…………」
「私は、童話の人魚姫みたいに、声を失ったわけじゃない、言いたいことは言うし……目的のためなら身体だって使う」
 有紀は両手の指を組み合わせ、まるで短剣を持つようなふりをした。
「あなたを手に入れられなきゃ、私は海に戻れない。戻るには、あなたを……」
 冗談と笑うには、怖いくらい真剣な眼が見下ろしている。
 すとん、とその腕が御守の胸に落ちてきた。御守は両手でそれを絡めとり、引き寄せた。
「……殺すしかないから………」
 そう囁きながら、有紀は、御守の胸に頬を埋める。
―――どうして、知ってる、
 御守はまだ――桜子のことで、混乱したままだった。
 ただ、御守自身も理解していた。
 昨日のプールで、自分が有紀を助けたのではない、自分が有紀に助けられたのだと。
 水面に身を投じた途端、眼を反らし続けていた過去とようやく対峙できていた。
 自分を追って水中に身を投じた異母姉。
 その姿を水底で気泡に飲まれて見失い、そのまま永遠に失った夏の日の出来事を――ようやく受け入れることができていた。
 いくら医師から事故だったと聞かされても、仕方なかったと慰められても、どうしても受け入れられなかった。
 どうしても、自分が海に誘い――そして、見殺しにしてしまったという呪縛のような記憶から逃れられなかった。
―――自分が姉を見殺しにした。
 ずっと、その、記憶の檻に囚われていた。
 けれど有紀を水中からすくい上げた途端、その檻の鍵が解けたような――そんな気がしたのだ。
 でも――まさか。
 自殺……?
―――桜子が……?
 しかも……俺を道連れに……?
 確かに、目覚めた時、口の中に苦いものが残っていた。
 乾いたキスを受けた唇は、最初から不自然なほど濡れていた。
 そして、夢の最後に、必ず聞こえる父の声。
 不自然に途切れる浜辺の記憶。
 俺は――どこか、別の場所で目覚めたのではなかったのか。
 枕元に立つ医師。
(――泳ぎの上手い者でも、油断するとあっという間に溺れてしまうことがあるからな、)
 枕元――そうだ、あれは俺の枕元だった。
―――では、俺は……。
「有紀」
 御守は、自分の胸の上でうつぶせに伏せたまま、動かない身体を揺り動かした。
「おい、有紀、言ってみろ、……桜子の話は、一体どういう意味なんだ、誰に聞いた話なんだ」
「……冗談に、決まってるでしょ………」
 少し眠そうな声が返ってきた。
 押し付けられている肌が、頬が、熱をもっているのが判る。
「ごめんね……噂を聞いただけなんだ……私」
「……噂?」
「御守さんのお姉さん、海で死んだって、以前教えてくれたよね………誰かが、…あれは服毒自殺だったかもしれないって言ってたから……。御守さんのこと……結構、色んな人が噂しているから……」
「誰がそんなことを言っていた、誰に聞いた」
 有紀は力なく首を振る。
「ごめん……それは……言えない……、その人に迷惑かかる……もの」
「………こんな時に聞いたんじゃなきゃ、今頃お前を……殴っていたぞ」
 そう言いながら、戸惑いはあっても不思議と怒りは感じなかった。
 そんなことよりも、今、抱いているはずの女を見失いかけていることの方が不安だった。
「……うん……ごめんね……、無神経、だっ……」
 声が途切れる。
 すうっと肩から力が抜けて、そのまま柔らかく――胸が呼吸を繰り返している。
 健やかな吐息が、御守の首のあたりをくすぐった。
「………おい」
―――寝たのか……?
「有紀」
 返事はない。
 無理もない……か、御守は嘆息して枕に深く後頭部を埋めた。
―――初めての身体に無理をさせすぎた。このまま寝かせてやった方がいい。長瀬に連絡して、迎えに来てもらって………。
 連さんらしくもない、長瀬の言葉が唐突に胸によぎる。
―――あいつ、…いい顔はしないだろうな。
 長瀬の仏頂面と、今日会う予定になっている紳司の取り澄ました顔を思い出し、―――御守はもう一度深くため息をついた。
―――噂だと……?
 どこから聞いたのかは知らないが、少なくとも有紀は、御守の周辺の人間と接触を持っていたということになる。
 単なる噂ではないだろう。噂にしては……あまりにも、核心をつきすぎている。
 それに、桜子が死んだ時の状況は、身内の者しか知らないはずだ。
「…………」
 有紀には悪いが、その出所を確認しなければならないと思った。
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