五


 ぱしゃん。
 ふいに水しぶきを掛けられて、御守は瞑想から引き戻された。
「ねぇ、泳ごうよ」
 明るい笑顔が、水面から覗いている。
「泳げないんだ」
 御守は眼を閉じ、そして元通りに腕を組みなおした。
 結局の所、まだ自分は、――もう二十年近くも前の、あの海の底から抜け出せていないのだ。二日前の紳司との会話を邂逅し、苦い思いでそう考えていたところだった。
 御守紳司。
 外見を裏切る下半身のだらしなさは、御守もよく知っている。あの生意気な従兄弟を潰す材料は、いくらでも揃えてある。
 でも――そうできないのは、父同様、自分も紳司の外見に、失った異母姉の姿を投影しているからなのだろう。
「嘘っぽいなぁ」
 有紀はそう言って楽しそうに身体を伸ばすと、そのまま再び水面に顔を沈めた。
 理光グループ直営のスポーツクラブ。
 その中に設置されている、競泳用の温水プールだった。
 有紀の希望をかなえるため、月例休館日にこうやって特別に解放してもらった。
 我ながら、子供じみたことしているな、と思う。
 広々としたコバルトブルーの水面。
 容良い腕が水をかき、足が跳ね上がるたびに、泡のような水しぶきが水面に踊る。
 しなやかで美しい流線型を描き、見事なフォームで水中を跳ねるその姿は、まるで一匹の極上に美味な魚に見えた。
 一応水着には着替えたものの、防水用のパーカーを肩に羽織り、御守はプールサイドに備え付けてある肘掛チェアに腰を掛けたままでいた。
―――水は嫌いだ……。
 どうしても思い出す。あの夏の日。忌まわしい海の記憶を。
 あの日以来、海にもプールにも行かなくなった。無意識に逃げていたのかもしれない。
「御守さん」
 近づく気配に、はっとして顔を上げていた。
 いつの間にプールから上がっていたのか、身体中から水を滴らせた有紀が、目の前に立っている。 
 睫から水滴が零れ、それが涙のようにも見えた。
 唇が濡れている。額に落ちた前髪から、間断なく雫が滴り落ちている。
 温水で温まった指が、そっと御守の肩に触れ、そのままパーカーを下ろされた。
 少し驚いた御守は、呆気にとられたまま、有紀の動きに身を任せていた。
「……御守さんって…きれいだね……」
「ばかなことを言うな」
 少しだけ、女の指先が冷えてきている。
 その指が、御守の鎖骨に触れ、ゆっくりと胸に滑り落ちた。
「上腕三頭筋が発達しているね、…この鎖骨………キスしたいくらい、きれいな形」
 御守の返事も聞かず、有紀の唇が浮き出した鎖骨のあたりに、そっと触れる。
 信じられないことに、それだけのキスで動揺していた。
 女の行為に――というより、自分の感情に驚いた御守は、冷淡にその肩を押して、突き放した。
「やめないか」
「どうして…?」
「女にそんなことをされるのは、好きじゃないからだ」
「するのは……好き?」
「相手にもよる、言っておくが、お前は規定外だからな」
 けれど有紀は、そのまま脚の間に身体を割り込ませるようにして、御守の胸にもたれかかった。
「………嘘だね」
 額を胸に押し当てたまま呟くように言う。
「………嘘?」
「何を恐れているの?何を見せたくなくて、いつもそんな怖い顔をしているの?」
―――恐れて……いる?
「女性の好みに煩いのは何故?もう二度と、誰も好きにならないつもりだから?」
「…………」
「あなたは一体」
「………」
「……誰に、何を、見られたの?」
「………」
 思わず、有紀の肩を掴み、顔を引き上げさせていた。どうやったら、この口を塞ぐことができるのか、憤りにも似た衝動で、胸が詰まりそうだった。 けれど有紀の眼は、少し寂しそうではあったものの、目の前の男を、少しも恐れてはいなかった。
「終わりにしようよ」
「なんだと?」
「あなたは私を抱かないもの、それは、……パートナーとして見てくれてないってことでしょ」
「ゆ……、」
 言いかけた唇に、濡れた唇が被せられた。
 軽く触れたキスは、それでも御守の唇を濡らしていた。
「………」
 思わず自分の唇を押さえていた。どこかで――知っている感覚、あの夏の、キスの記憶。
「…つかまえて」
 有紀はまるで本物の魚のように身をくねらせる。しなやかに濡れた身体は、男の腕をすりぬけた。
「おい、」
 御守は立ち上がっていた。
 追いすがる腕をさらにすり抜け、女のきれいな背中が伸び上がった。
 クラウチングスタート。それは見事なフォームで跳躍して水面に消えた。 水飛沫、そして細かな気泡が水面に立ち上がる。
「つかまえてくれなきゃ、私はもう二度とあなたには会わないから!」
 そして、一匹の優雅な人魚は、水面から完全に姿を消した。
「有紀!」
 御守は揺れる水面に向かって叫んだ。
「ふざけるな、俺はそんな挑発には乗らないからな」
 誰もいない広い空間に、声だけがむなしく拡散していく。
「くそ、」
 有紀の返事はない。
 青い水中に黒い影が飲み込まれて、それはますます遠ざかっていった。
 静けさが戻る。穏やかで静かな水面。
「………有紀」
 水面は動かない。
 照明が反射して光の膜を張っている。
 もう御守には、広いプールのどこに――逃げた人魚が潜んでいるのか、わからなくなっていた。
 しばらく待って、焦燥にかられ、たまりかねて叫んだ。
「おい、ふざけるのはいいかげんにしろ!」
 それでも、水面は静かだった。
 声だけが、虚しく響く。
「…………」
 女の身体が水中に消えて――もう、二分近くたっている。
 不安が膨れた。あの日と同じ、いくら待っても出てこない顔。
(――泳ぎの上手い者でも、油断するとあっという間に溺れてしまうことがあるからな、)
(――こう…鼻から水が入るだろう?鼻は耳に繋がっている。耳に水の圧力が加わると、脳の垂体が圧迫されて内出血を起こすことがあるんだよ。そうなりゃ大人でも三半規管が狂って平衡感覚が取れなくなる。泳ぎの上手い奴がふいに溺れて死ぬのはそういう時だ、…桜子さんは、まだ子供で、耳管が未熟だったから――)
 あれは誰に聞いた言葉だったのだろう。おぼろげな記憶。枕もとに立つ医師。……枕もと?何故、記憶にあるのは、そんな意味の通らない場面ばかりなんだ?
 あの夏の日と同じように、濡れたキスを残して消えた女。
 だとしたら、有紀―――も……?
 御守は手元の腕時計を見た。
 三分はゆうに過ぎている。
「…………あの莫迦」
 不思議なことに、わずかな躊躇もなく水面に身を投じていた。
 腰を曲げ、上半身を下に向ける。指先からするり、と刺さるように入水する。
 暖かな温もりが、心地よく全身を包んだ。
―――……この感じ。
 緩やかな水圧、腕で重たいゼリーをかきわける感触。
 水を掴み、掴んでは背後にプッシュする。掻き終わった手は、次のストロークのために空中を移動して前方へ戻す。
―――久しぶりだ………。
 鼻をつく塩素の香りと、かすかな痛み。呼吸が苦しい、長すぎるブランクのせいか、上手く息を吐くことができない。たまりかねて、一度、空気を求めて水面から顔を上げる。
 そして潜る。深く、深く、水を掴み、掻いては進む。その度に水中に新しい泡が生まれる。
 透明な青緑。波間で形取られた流線型の光が、水底で煌いて揺らいでいる。
 気泡の彼方に、黒く翳る影。
―――桜子………。
 立ち昇る泡が、その影を序々に覆い尽くしていく。
 何故か身体が動かない。
 揺らぎながら泡に呑まれていく人影。
 黒く踊る髪、伸ばされた白い腕。それを見つめながら、どうしても身体が動かない。
―――桜子……。
 御守の眼に、水とは違うものが滲んだ。
 違うんだ、俺は――嫌だったんじゃないんだ、怖かったんだ、見られたくなかったんだ。本当はあの時、あの時俺は――。
 異母姉のキスに感じていた、身体の変化を見られるのが、自分の顔を見られるのが怖かった。
(―――こんにちは、連君……)
 初めて見た時から、好きだった。恋していた。だから――認めたくなかったんだ、あんたが……自分の姉になるなんて。
―――だから………。
 あの時。力を失って流されていく桜子の姿を見つめながら、――俺は、
 もう、あわせる顔がないと思ったから――。
 自分の浅ましい思いを悟られるくらいなら、死んでくれたほうがいいと、確かにそう思ったから――。
 だから……きっと、動く事ができなかったんだ……。
 涙が水中に溶け、唐突に視界が鮮明になった。
 御守は、ようやく我に返った。
―――今のは……幻影か……?
 水底で、黒い髪がゆらゆらと揺れている。力なく伸ばされた腕、閉じた瞳と上向いた喉。
 それは夢ではない、現実の女の姿だった。
 二十年前の姉の姿ではない――今、現実にここにいる女。
―――有紀、
 考えるより先に、腕が動き、足の甲が水を蹴った。
 青く翳る肌、薄く開いた唇。
 近づいてみて判った。もう――その唇は呼吸をしてはいない。
―――待ってくれ、間に合ってくれ、
 肩に腕を回し、腰を抱き取って持ち上げる。
 片腕で懸命に水を掻く。
 苦しい、最後の呼吸を吐き出して、あとは無我夢中で水面を目指した。
「…っはぁっ」
 唐突に照明の光が目蓋を焼き、飢えた肺に酸素が流れ込んだ。 
 ふいに重みを増した女の身体。それが、肩に重くのしかかる。
 足でなんとか体制を整えて、その重みを抱いたまま、再び水を掻こうとした。
「……御守さん……」
 耳元で幻聴のような声がした。
 驚いて、ほとんど鼻先にある顔を見下ろす。
 見上げる瞳、睫が水で濡れている。そして淡く笑んだ唇。首に回された腕に、確かな力がこめられた。
―――こいつ、
 怒りなのか、安堵なのか、衝動なのか。
 わからないまま、御守はその唇に口づけていた。すぐに有紀も反応して、絡むようなキスが続く。
 足の立たない水中でバランスを保ちながら交わすキス。
 どこかもどかしく、焦れるような切なさと忙しなさ。それが熱さをかきたて、突き上げ、御守は貪るように女の唇を求め続けた。
 先に身体を離し、水を蹴って泳ぎ始めたのは有紀だった。
「…つかまえて」
 女はもう一度同じことを言い、きれいなストロークで水を掻く。
 もう一滴の躊躇さえなかった。御守は水中に身体を沈め、昔得意だったフォームで水圧を切り裂き、逃げた獲物の後を追った。
 プールサイドに追い詰め、そして腕の下から掬い上げるようにして水上へ引き上げる。
 有紀は素直に身体を任せたまま、濡れた床で御守のキスを受け入れた。
 御守は、腕の中で震える身体をきつく抱き締め、長く引くキスをして、それからもう一度抱き締めた。
 そして、興奮を癒すように、ゆるくキスをした。唇に、頬に、耳に、髪に。そうしながら、ここで――抑制しようと決めていた。まだ、壊せない、まだ――壊したくない。
「御守さん……」
 有紀の両腕が腰に回り、強く抱き締められるのが判った。
 見上げた眼に、期待と不安が入り混じっている。御守の気持ちも同じように揺れる。
「………お前、この先どうなるのか、本当に判っているのか?」
 こっくりとうなずく。そして有紀は眼を閉じた。
「……俺は……お前に、何も責任を果たすことができないんだぞ」
「平気、……私、好きだから……」
「………」
「好きだから……御守さんの……こと」
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