四


―――蓮………。


 ふと眼を開けると、細くて白い足首が視界に入った。
 夏の終わり、避暑地の海岸。
 プライベートビーチには他に人気もなく、気がつくと姉の桜子と自分だけが、広い砂浜に取り残されていた。
 夏休みのその日、御守家は家族で、伊豆の別荘に来ていた。
 暇を持て余していた異母弟に――二人で海に行こう、と誘ったのは桜子の方だった。
 なのに海についても、桜子は砂浜に寝転んだきり動こうとしない。
 だから蓮一人で泳いで――それでも姉が帰ろうと言わないので、結局は疲れて、同じように砂浜に仰向けになって寝転んだ。
 そして――何時の間にか、パラソルの下で転寝をしていたらしい。
―――蓮……。
「……桜……子?」
 桜子の膝が砂に埋まり、ゆっくりと顔が近づけられるのが判った。
 稽古事に追われ、勉強ばかりしていた異母姉。
 中学受験に失敗してから、いつもどこか虚ろな眼で空を見つめていた眼差しが――今、不思議なほどまっすぐに見下ろしている。
―――蓮……、キスしよっか。
 意味が判らなかった。判らないままに、ただ、覆い被さる影を見上げた。
 すぐに乾いたキスが降りてきて、そっと触れて、静かに離れた。
 離れた後に、初めて急速な羞恥心が膨らんだ。指で触れた唇が濡れている。それがひどくいけないことのように感じられた。
―――私のこと……好きでしょ……。
「好きなわけないだろ」 
 蓮は叫んで、跳ね起きた。口に溜まった唾液を吐き出す。
 嫌悪感で、吐き気がした。
 駆け出すと、すぐに桜子が追ってくる気配がする。
「いけない、駄目、待って……待ちなさい…っ」
「――ついて来んな」
 蓮は振り返らずに叫んだ。
 そのまま走って、水しぶきをあげながら海水へ身体を沈める。
「俺の家から出て行け、――汚いことしやがって、お前なんか、大嫌いだ!」
 最後に、顔だけ上げてそう叫んだ。
 泳ぎは昔から得意だった。そして、桜子が余り得意でないことも知っていた。
 蓮は、水底深くもぐっていった。深く――深く、息が続く限り深く。
 青緑の深海。
 顔を上げると、揺らぐような人影が見えた。
 細かな気泡が、突然足元で弾けて上り、視界一面に広がっていく。
―――桜子……?
 泡が、うごめく人影を覆っていく。
―――人魚……?
 手も、足も、何かに囚われたように――重く痺れて動かない。
 揺れる人影が、どんどん深緑に溶け込んでいく。まるで――泡と同化してしまったように。
 息が続かなくなったせいか、視野がふいに黒ずんだ。
 頭の芯が、眠りに落ちる前のように、朦朧としかけている。
 全身の力が抜けかけた時、ふわり、と身体が持ち上がった。
 海流に抱かれるように押し上げられ、そのまま水面へ弾き出される。
「……っはぁっ」
 収縮した肺を潤す空気。
 水面は、そのまま生と死の境界のようだった。
 怖かった。まとわりつくような海水の重みも、足の立たない不確かさも。
 潜ることも泳ぐこともできないまま、ただ、水面に浮いていた。
 浜辺に転がったビーチサンダル。出てこない顔。過ぎていく時間。


「連!……連、しっかりしろ、目を覚ませ!」


――――なんで……夢の終わりは、いつも親父の声がするんだろう……。



            ※



「蓮、」
――………。
「おい、蓮、起きろよ」
「……っ」
 夢の声が現実になり、御守は唐突に覚醒した。
「どうしたんだよ…ひどい顔して」
 目の前で喋っている顔――嘘だ、そんなはずはない、御守は首を振る。夢と現実の区別がつかない。
「おい、蓮…?」
 見下ろしている長身の影。その顔から夢の面影が消え、御守紳司――二つ年下の従兄弟の顔が滲み出てきた。
「………紳司か、」
 額に浮いた汗を拭って、身体を起こした。
 オフィスにある来客用の長椅子の上だった。わずかの間、目を閉じていただけだったのに――いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。
 思わず舌打ちが漏れそうだった。
 仕事中に転寝していたことも、さることながら、……目覚めとしては最悪の部類だ。
 またあの夢を見てしまった。それに…一番見られたくない相手に見られてしまった。多分ひどく無防備だった自分の寝顔を。
 横目で紳司を伺い、緩めていたネクタイを締め直した。いつもそうだが、この従兄弟の前で、御守は必要以上に緊張する。
「失礼します」
 そう言ってコーヒーを運んできた長瀬を、御守は横目で睨みつけた。
―――どうして勝手に紳司を通したんだ、……と、無言で責める。
 無表情の長瀬が退室した後になって、ようやく、紳司が来たらそのまま通すように――あらかじめ指示していたことを思い出していた。
 何のことはない、約束を忘れて転寝していたのは自分だったのだ。
「………久しぶりに見たよ、蓮の寝てる姿」
 御守紳司は、柔らかなアルトの声でそう言うと、口の端に薄っすらと笑みを浮かべた。
 ひどく痩せているくせに、背ばかりが自分を追い越してしまった従兄弟。
 銀縁眼鏡を掛け、髪は嫌味なくらいきっちりとセットしてある。祖母似のやさしい顔立ちをしているが、一人っ子で甘やかされて育ったせいか、勘気が強く気性が激しい。
 眼鏡の下には、その冷たいレンズと変わらぬ冷たい瞳が隠れていることを、御守はよく知っている。
「どうしたんだよ、そんなに怖い顔をして、そんなに俺に、寝込みを襲われたのが気に入らなかったのか?」
 どこか余裕の笑みを刻んだまま、紳司はゆったりと御守の対面に腰を下ろした。
「寝顔なんて、人に見られて気分のいいものじゃないだろう」
 ざらつくような不快感とかすかな胸の痛み。
 御守は立ち上がり、この生意気な目下の男から目を逸らした。
 やっかいなことに、紳司は、年を追うごとにますます似てくる――死んだ異母姉の、桜子の顔に。
 姉の玲瓏とした美貌は、父の若い頃にそっくりだった。
 それが御守家の血筋で、死んだ母親似の蓮には受け継がれていない、―――むしろ、従兄弟の紳司の顔に、それは色濃く滲んでいる。
 多分それが、――紳司が、御守の父に愛される理由なのだ。そして御守が決してこの従兄弟に強く出られない理由。会うだけで緊張し、不快な気持ちになる理由。
「……何の用だ、お前がわざわざ俺を尋ねてくるなんて、驚きだな」
 無論用件なら聞かなくても判っている。御守は居住まいを正し、再び紳司に向き直って、ソファに深く座りなおした。
 紳司はしらけたように肩をすくめる。そして、ふいに冷たい目の色になって言った。
「判ってるだろ、蓮が、H市の都市整備局長と勝手に会合を持ったことだよ」
 確かに、それは判っていた。
 御守は、眉ひとすじ動かさず、冷静な眼で従兄弟を見上げた。
「親父の命令だ、お前一人じゃもう無理だってことがわからないのか」
「俺にだって考えがある、もう少し待ってくれれば、いい結果がついてくるんだ」
「企業は役所じゃない、結果が全てだ」
「うるさいな、判ってる」
 乱暴にテーブルが叩かれた。
 勘気の激しさが、わずかな言い争いだけでもう紳司のこめかみを震わせている。
「蓮の案は聞いたよ……住宅の分譲価格を引き下げることだろ?そんなバカなことをしたら、最初に入居した人たちから猛反発をくらうじゃないか」
「それがどうした、差額は市の負担になるんだ、会社の損失にはつながらない」
「誰が頭を下げて回らなきゃならないと思ってる、現地にいるのは俺なんだぞ」
「下げてすむものならいくらでも下げろ、そんなに大したことじゃない」
 御守は冷たく言い捨てた。
 ぐっと紳司が口ごもる。
 紳司にしても、この年上の従兄弟が新都市の用地買収に当ってどのくらい頭を下げて回ったか――知らないわけではないからだろう。
「さすが、蓮は余裕だね……ただ、それも、自分がサラブレッドで、次期会長候補だから、できることだと思うけどな」
「関係ないだろう、そんなことは」
「そう言えるのが、余裕だって言ってるんだよ、俺には出来ないね、そんな真似をしたら、他の社員どもに舐められちまう」
 紳司の声は苛立っていた。
 御守は黙って、視線を下げた。
 確かに、紳司にはそれが出来ない。
 彼はビジネスマンというよりは子供の頃から帝王だった。人の下にいることが我慢できない。現在関連企業の一室長に過ぎない紳司がどれだけじりじりしながら専務職を狙っているか、それは御守もよく知っている。
「とにかく俺は、俺のやり方で、あの都市を活かしてみせる」
 紳司は開き直って腕を組んだ。
「……蓮には、それまで手を引いていてもらいたい、今日はそれを言いに来たんだ」
「お前のやり方とやらを話してみろ」
「今に判る」
「……おい、紳司」
「いいから放っといてくれ」
 言い出したら聞かない紳司、そして常に引下ってしまう自分。
―――……だから嫌だと言ったんだ。
 御守は嘆息した。
 父は紳司を可愛がっている、けれど絶対に主要ポストには置くべきではない。トップがビジネスに秀逸で冷血だからこそ、理光はこの不景気の中ここまで業績を伸ばしてこれたのだから。
 かすかな笑い声が聞こえた気がした。
 御守は耳を疑って視線を上げた。信じられないことに笑っているのは紳司だった。
 白い肌に、笑うと黒い皺が刻まれる。それが昔から、なんとも気味悪かったことを思い出していた。
「蓮……例の教会な、うちが抵当権を押さえてるんだ」
 御守の手元が止まり、あごが強張ったように動かなくなった。
 紳司はどこか曖昧な笑みを浮かべたまま、フレーム越しに冷たい眼を光らせている。
「……思い出したか?東風新都の土地買収で、蓮が、唯一買収に失敗した美倉坂教会だよ。綺麗な顔をした若い神父がいて、……蓮、人嫌いのお前が、珍しく仲良くしていたじゃないか」
●次へ
○前へ
●目次へ