四
「――――お前……」
御守は、そう言いさしたきり、言葉を失った。
甘い匂いが、いつの間にか部屋の中に満ちている。
背後に立っている有紀は、ジーンズに淡いブルーのニットアンサンブル。
出迎えに出た時の衣服のままだった。手にしていたトレイをパソコンデスクの隅に置き、隣接する書棚に、その視線を向けている。
「この写真、前から気になってたんだ、一緒に映ってるの御守さんでしょ、可愛い、まだ中学生くらい?」
ほっそりとした腕が無造作に持ち上げたのは、小さな銀製のフォトフレームだった。
視線を凍りつかせたまま、御守は無言で女を見つめた。
どうして――と思った。
部屋に入ってきた気配に気づかなかったことも、当たり前のように入室されたことも、同様に不快ではあったが、それ以上に、女が写真を手にしていることが驚きだった。
その写真が収められたフォトフレームは、伏せたまま、棚の隅にしまっておいたはずなのに。
そして、気づいた。
「お前、……昼間に、この部屋に入ってるのか」
「だって、掃除機とか、かけたいじゃない、冬は結露とかも気になるし、風通しよくしないと」
有紀は悪びれずにさらり、と答える。
「写真立が倒れてたから、ちゃんと飾りなおしてあげたの。ねぇ、これって、いつ頃の写真?どうしてこれだけ飾ってあるの?」
御守は何も言えなかった。憤りと苛立ちで、息苦しいほどだった。
「ねっ、それよりさ、私、いいこと考えたの、あみだって知ってる?あみだクジ」
フォトフレームを元通りに書棚に戻し、すりよってくる有紀の手に、一枚の、桃色の紙片が握られている。
「一回だけでいいの、私をどっかに連れてってくれないかなぁ、彼氏が出来たら、一緒に行って見たいとこがあって」
「出て行け」
自分の声とは思えないほど――冷たい声が零れていた。
有紀が、驚いたような顔で口を噤む。
その目に浮かんだ怯えの色。多分―――よほど自分はひどい顔をしているのだろう。
それを自覚しつつも、御守は感情をコントロールすることができなかった。
「出て行け、二度と俺の部屋に無断で入るな」
「……無断って……ここのマンション全部、御守さんの部屋じゃない」
「お前が自由に使っていいのは、リビングと寝室とバスだけだ、最初にそう言ったはずだ」
「…………」
女の目が悔しげに潤んでいる。
「いいか、俺はお前と、これ以上深くつきあうつもりはこれっぽっちもないし、いちいち私生活に踏み込まれるのも我慢ならない。ここを追い出されたくなかったら、俺のテリトリーに二度と入るな!」
子供相手に――……。
有紀から顔を背け、御守は自分が情けなくなった。――――子供相手に、何を本気で怒ってるんだ、俺は。
その時、いきなり冷たくて柔らかな衝撃が顔面ではじけた。
「……っ」
甘い香り、どろり、と頬を伝って落ちる白い塊。
「………………おい」
怒りというよりは、むしろ呆気に取られていた。
ケーキを顔面にぶつけられたのは、生まれてこのかた――どう考えても初めての経験だ。
「バカっ、御守さんなんか大嫌いっ」
「おい、よせっ、何やってる」
目に入ったクリームに気をとられている間に、今度はコーヒーカップが飛んできた。
驚愕する御守の目の前で、それはデスクの上で砕け散った。琥珀色の液体が勢いよく飛散する。
――――まずい、パソコンが、
まるで悪い夢でも観ているような気分だった。
「私、言ったのに、ちゃんと好きだって告白したのに!」
有紀の悲鳴なような声も、意味がない背景音のように通り過ぎていく。
キーボードにも、画面にも、クリームやスポンジ、そして褐色の液体がべっとりと付着している。
白いパソコン画面に無機質な数字がざーっと並び、勝手に増殖しはじめた。
エンターキーの上にひしゃげたままくっついている苺の断片を見た時、御守は全てを諦めた。
「御守さん、ちゃんと返事もしてくれない、一緒にいるのに、そんなのって冷たすぎる!」
「―――頼むから、少し黙っててくれ」
混乱しかけた頭を忙しなく整理する。
社のネットワークを使ってログインしたから、メールのデータは無事なはずだ。このパソコンで作成した資料も、そのほとんどが社の別パソコンから開くことができるから――。
「……もう、いい」
有紀の低い声が頭上で響いた。
「もういい、私、出て行く、もう御守さんの顔なんで二度と見たくない!」
「好きにしろ」
御守は振り返りもせずに言った。
頭の中は、失われたデータの復旧のことしかなかった。
六
「ああ、そうだ、一時間ばかり遅くなる、調整を頼む」
それだけ言って電話を切り、御守は重いため息をついた。
時計はすでに午前七時を回っている。
あれからぶっ続けで作業を続け、ようやくノートパソコンから、データを呼び起こし、その殆んどを復旧させることに成功していた。
―――あとは……。
情けないような思いで、生クリームだらけのデスクトップに目をやった。
―――ハウスキーパーでも呼ぶか、ったく、子供みたいな汚し方しやがって。
疲労が全身に蓄積している。
九時から予定されている会議さえなければ、ベッドに倒れこみ、このまま眠ってしまいたいくらいだった。
「くそ、年だな」
徹夜など、若い時ならいくらでもできたというのに。
シャワールームへ行こうとして、そして、初めて、足元に落ちている見慣れない色彩の紙片に気がついた。
「…………?」
手にとって判った。有紀が……持っていた紙だ。
ピンクの便箋。御守には理解できない、何か幻想的なイラストが印刷されている。
そして、ボールペンで、数本の線が引かれている。
―――あみだって知ってる?あみだクジ。
「…………」
それは確かに、御守の記憶にある、あみだクジというものだった。
数本の縦横の線が並び、その下に、きれいな、丸みのある筆跡で、文字が書かれている。
『夜の水族館を借り切って、2人でデート』
「できるか、そんなこと」
『貸切の屋内プール、2人きりでラブラブ』
さすがに失笑が漏れていた。
「…………真性の莫迦だな、こいつは」
『海の見えるホテルでお泊り』
「…………」
顔は洗ったはずなのに、まだ甘い匂いが指先に残っている。
「……有紀、」
御守は、書斎の扉を開けて、外に出た。
作業に没頭するあまり、冷たく追い払った女の存在を忘れきっていた。
まさか、あの時間に出て行ったりはしないだろう。――――でも、
「おい、有紀」
薄く翳った室内には、人の気配はない。
リビングの扉を開けると、甘い香りが急速に濃くなった。
「…………」
キッチンも、テーブルの上も、ひどい有様だった。
転がったままの軽量カップ、泡だて器、床にこぼれた小麦粉、砂糖、飛び散った生クリーム。
―――あの、ケーキは……。
「……作ったのか」
いつ―――?
昨夜帰宅したのが、11時過ぎだった。
その時、キッチンはきれいなままだったはずだ。
あれから――――有紀が、書斎に入ってきたのが、午前2時を回っていたから……。
「…………」
莫迦じゃないのか。
「有紀、」
寝室の扉を開ける。
きれいなままのベッドに、人が使用した気配はない。
「おい、どこにいる、出て来い」
―――いい年したオヤジが、夜中にケーキなんか食えると思ってたのか、……あの莫迦。
「――……有紀」
玄関で、――靴がなくなっているのを確認した時、初めて、焦燥が胸に広がった。
「……くそっ」
出て行ったのだ。
あんな時間に、一体何処へ行ったというのだろう。
―――なんのために俺は、毎晩、有紀の待つ部屋へ帰ってたんだ。
御守は、舌打しながら自問した。
―――なんのために。
それは、あの――莫迦みたいに無防備で、子供じみた女を、守ってやりたかったからではなかったのか。
「…………」
この喪失感はなんなのだろう。激しい後悔と、こみあげる悔悟。
今、自分を支配している感情が信じられない。
リビングの電話がいきなり鳴ったのはその時だった。
七
「すいませんね、余計なことだとは思ったんですが」
地下に降りていくと、マンションの管理をしている初老の男が、申し訳なさそうな顔で近づいて来た。
「いや、いい」
足早にその前を通り過ぎようとして、そして、足を止めて言い訳がましく言った。
「……親戚の子供を預かってるんだ、電話してくれてありがとう」
その言いかたで、管理人も察したのだろう。慇懃に頭を下げて、そこで足を止めてくれる。
御守は自分の車を停めてある駐車スペースに駆け寄った。
黒のベンツ。普段は長瀬の運転で移動するため、自分では滅多に運転しない車。
近づくまでもなかった。灯された車内のライトが、薄暗い地下で、その存在をアピールしている。
「…………」
後部シートで、まるで胎児のように身体をまるめ、眠っている女。
―――この……莫迦女。
エンジンはかかっていない。バッテリーが上がったら、どうしてくれるんだ。
そう思いながら、スペアのオートキーで扉を開けた。
早朝の地下駐車場は冷え切っていたが、車内も同様に寒々としている。
「おい、起きないか」
有紀の横顔、蒼ざめた唇は、呼びかけても微塵も動かない。
「……おい、エンジンくらいかけておけ」
触れた肩は、思わず手を引きかけたほど冷えていた。
自分の吐く息も白く濁っている。
有紀は、昨夜、最後に見た衣服のままだった。
―――莫迦……。
この寒さで、こんな薄着で……。
首と脇の下に手を差し込み、引き寄せるようにして抱き上げてやった。
流れる髪の一筋までも、凍てついたように冷えきっている。
「……御守さん……?」
女がようやく、薄っすらと目を開けた。
赤く充血して、腫れた目蓋。
はじめて、胸が痛くなった。
「……悪かったな……」
御守は呟いた。
「うん……」
細い腕が伸びてきて、首に回され、抱き締められる。
しんから冷え切った華奢な腕。
そのまま――深く抱き締めてやりたかった。その衝動を抑え、その代わりに御守は言った。
「お前の言う事を聞いてやるよ、……ひとつだけだ、何がいい」
胸に寄せられた首が、ゆっくりと左右に振られる。
「……ひとつじゃ、やだ」
「おい、」
「ひとつじゃやだもん」
「わかったわかった」
この瞬間、確かに抱いている女が愛しくて――愛しすぎて、戸惑うくらいだった。