二




 鍵を差し込もうとした途端、ここ数日来いつものように、扉は内から勢いよく開かれた。
「おかえりっ」
「………」
――――またか、
 嘆息して、わざと冷たい目で、女を見下ろす。
 背丈が自分の胸ほどまでしかない女は――満面の笑みを浮かべたまま、嬉しそうに眼を輝かせている。
 内心、どこかでほっとしてもいた。今日も無事で、女が部屋で待っていてくれたことに。
「遅かったね、お腹すいたでしょ、御守さん」
 出てくるな、と何度注意しても無駄だった。この娘は、主人の帰宅時には、よくしつけられた飼犬のように飛び出してくる。
「お前な、……ほんっとに俺の立場を理解してるのか」
「してるよ〜、婚約者のいる御守さんにスキャンダルは命取り」
「………」
 有紀は楽しげにそう言うと、すぐに御守の背後に回って扉を閉めた。
「大丈夫だよ、ここは超高級マンションの最上階。この階はまるまる御守さんのものなんだから、誰にも聞かれる心配ないって」
「お前に言われなくても、判ってる」
 靴を脱いでいると、背中か柔らかく抱き締められた。
「ねっ、お風呂にする?ご飯にする?それとも」
 下からのぞきこまれるように見上げてくる瞳。玄関の青みを帯びた照明を受けて、きらきらと宝石のように輝いている。
「それとも――あ、た、し?」
「莫迦か、お前は」
 ため息が出た。
―――……こんなガキに、誰が夢中になってるって?
 帰りの車中で感じた不快感が、まだそのまま胸の底によどんでいる。
 女の腕を冷たく解き、御守はさっさと室内に上がった。
「悪いが仕事が山積みなんだ、食事も風呂もいい、勝手に一人で済ませてろ」
「え〜……また……?」
「帰ってきただけで、ありがたいと思え」
 それだけ言って、廊下の奥にある書斎の扉を開けた。
 この四日間、御守は、いつもそうしていた。同居する女と――極力、距離を開けるよう努めていた。
 愛人になどする気はない――ないと決めた以上、二人きりの部屋で、必要以上に接触するのは危険な気がしたからだ。
 背後から、有紀の足音が近づいてくる気配がする。
「昨日も今日も、私、ずっと一人だったんだよ」
「それはそれは」
 部屋の中に入り、扉を閉めようとした。有紀が、素早くその隙間に手を差し入れてくる。
「ねぇ、かわいそうと思わない?あなたは、クリスマスまでのパートナーだよ、たまにはデートとかに連れてってよ」
「忙しいんだ」
「だから、夜でもいつでもいいから」
「俺みたいなオヤジに遠慮せず、誰とでも好きなところへ遊びに行けばいいじゃないか」
「…………」
 上機嫌だった女が、悲しそうな眼でふと黙る。
 御守は、言いすぎたことに気がついた。
「……悪いな、本当に今週は忙しくて」
 言い訳がましく目を逸らした時、ふいに女が扉の内側に滑り込んできた。そのまま背伸びをし、顔を近づけてくる。
 御守は眉をひそめ、その肩を押し戻した。
「やめろ」
 綺麗な瞳が、寂しげな瞬きを繰り返す。
「キスもだめなの?」
「……部屋にも置いてやってるし、食費の面倒もみてやってる。何が不満だ」
「……寂しい」
「何度も言ってる、お前を愛人にする気も、恋人にする気もないんだ、俺は」
「最初は……あんなキスしたくせに」
 うらみがましい眼の色になる。
 御守は思わず口ごもった。
「あれは……衝動だ、ああいうこともたまにはある」
「じゃ、今もして」
「あのなぁ」
「だって、あなたの目、今衝動を感じてるでしょ」
「…………」
 御守は容赦なく女を押し出し、扉を閉めた。図星だった。
―――嫌なガキだ。
 子供みたいだと思えば、ふいに一人前の女の目になる。
―――キスもろくにしたことがないくせに。
 長瀬の言葉が、再び脳裏に蘇る。
 それもある意味、図星なのかもしれない。
 御守はため息をついて、ようやく思い出したように、着たままになっていた上着を脱いだ。


                三


 気がつくと、午前を大きく回っていた。
 御守はパソコンから視線を上げ、室内の壁に飾られているラフの水彩画を見つめた。
 それは、数年前――自らが心血を注いで作り上げた都市の竣工予定図だった。現場を退く際、デザイナーから記念に贈られたものだ。
 山間九十ヘクタールの広大なエリアに広がる新副都市「東風新都」。
それが人工の都市の愛称だった。


<この街には、1000戸の集合住宅、200戸の戸別住宅エリアが設けられているが、――その半分が、竣工から二年たった今も、埋まっていない>



 再び視線を下ろしたパソコンの画面には、かつての部下から届いたばかりの、メールが開かれていた。
 御守が、東風新都のプロジェクト責任者として室長をしていた頃の部下で――今は、理光リビングサポートに出向し、紳司の下で総務課長をしている男。
 車の中から携帯電話で指示をして、ものの一時間で、<東風新都>の問題点に関する報告書と、大量の添付書類が送られてきた。


<集合住宅も戸別住宅も、人が入居しなければ無人建造物にすぎない。ライフライン、及びあらゆるセキュリティは、そもそも全ての部屋が埋まった状態を想定してプログラムされている。それが二年以上も大半が無人のまま中途半端に稼動している…だからトラブルが続発するのだと、推測される>


「――水が汚い、トイレの水が逆流する、電気がすぐに飛ぶ、セキュリティシステムが正常に稼動しない…等々、か」
 御守は画面に羅列されている文章を読み上げた。
 ひとつひとつは細かなことだが、一生分の買い物をして住宅を手に入れた住民たちにとっては、切実な問題だろう。


<とにかく一番の問題は、一都市として機能しうる全てを備えておりながら、未だにその都市を形成する人口が半分に満たないという点にある>

  
 報告書は、そう締めくくられていた。
 それは御守の予測を裏付けるような報告書でもあった。
「……問題は、紳司にその認識があるかどうか、だな」
 御守は呟き、思い出したように凝り固まった肩をまわした。
 全ての報告書にひととおり眼を通して、ようやく事態が正確に飲み込みかけていた。
 紳司がこの二年の間にやってきたことは、住民を無視した形での大企業の参画誘致だった。
 商業、生活プラザには大型スーパーや大手都市銀行などが並び、スポーツ施設、小学校、中学校も建設され始めている。東風ネイオスと名称がつけられた商業業務地区には、これから多くの企業が店舗を出店する予定になっている。
「……相変わらず派手な奴だ」
 嘆息と共に呟き、メール画面を閉じた。
 確かに紳司はそういった派手な企画をぶちあげるのは上手い。
 けれどそれも全て、――都市の人口が埋まらないことには成り立たない、まさに画餅に帰してしまうというのに――。
 うわべだけ見えて足元が見えない。それが紳司の、昔からの悪癖だった。
 人口の件に関してはリビングサービスの問題というよりは、そもそも新都市のプロジェクトを起案した行政の問題でもある。
 けれど、実質都市住環境の管理全てを依託されているのは理光本社であり、その直接の窓口が理光リビングサービスの総合企画室である以上、この事態を放置しておくわけにはいかない。
 このままだと間違いなく、理光という不動産業界一のブランドに傷がつく。
「……――紳司が悪いわけじゃないが」
 御守は軽く舌打ちをした。
 なんにせよ、住民への対応がまずすぎる。
 訴訟に持ち込まれない内に、H市とも相談して、なんとか、残りの住宅を早急に売却する方向で進めないと―――。
「ねぇ、この写真の女の人って、御守さんの初恋の人?」
 背後で、いきなり声がした。
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