三
「どうぞ」
待機していた大柄な男が、有紀のために車のドアを開けてくれた。、首が頭と同じくらい太い。まるでプロレスラーのような体格をした男だった。
プールの地下にある駐車場。
それまで一言も発することなく先を歩いていた――御守蓮は、すでに後部座席のシートに身体を預け、有紀が乗り込むのを待っている。
有紀が御守の隣に座ったのを確認すると、プロレスラーを思わせる男は当然のように運転席に収まった。――運転手さんかな、と有紀は思った。――それにしては怖い顔をした人だな、とも思った。
ステアリングを握るプロレスラーは、御守とさほど年が変わらないように見える。髪は短く刈り上げられ、黒眼部分が極端に少ない。身体にみっしりと硬い筋肉の鎧をまとっている――そんな感じだ。
―――ひょっとして……やーさん??
有紀は少し怖くなった。
黒いダブルのスーツを隙なく着込んでいるせいか、初見の人なら、誰でもその筋の人だと勘違いしてしまうだろう。
「出してくれ、長瀬」
御守は抑揚のない声でそう命じ、それを待っていたかのように、車は緩やかにスタートした。
有紀は落ち着かない気持ちになった。
身体が沈みこむほど深みのある座席。足元のシートまで高級な匂いが漂う車。車種は判らないが、運転席が左側にあるということは国産の車ではないのだろう。
「………」
自分の着ている服――それが、少しだけ恥ずかしくなる。
着古したウォッシュジーンズとチェックのシャツ。古着屋で買ってリメイクしたケーブル編みのロングカーディガン。ロングストラップ付きのブーツ。
古着を買って、金を掛けずにおしゃれなアレンジを施すのは得意だった。けれど車内の香りすら洗練されたこの高級車に、今の服装が似合わないことだけは間違いない。
「君のことを聞いてもいいか」
隣でゆるく腕を組みながら、――御守蓮は、落ち着いた声でそう切り出した。
ほとんど振動を感じさせない車は、地下の駐車場を抜け、夜の街へと滑り出す。
クリスマスまであと一月以上もあるのというのに、気の早い街並みには、雪の欠片のようなツリーのイルミネーションが点滅していた。
「お互いに、余計なことは聞かない方がいいと思うよ」
少しだけドキドキしている。有紀は、男の顔を見ないままで言った。
「年は?」
御守はそれには構わずに聞いてくる。彼の横顔に、車外の明かりがよぎっては消える。
「……生年月日…カードに記録してあったでしょ」
「……二十歳か……にしては、貧相な身体つきだな」
「余計なお世話、スレンダーって言ってくれる?」
「あのクラブの会員は、確かに、大抵が裕福な家の子息だと聞いている。連城と聞いてピンときた、お前の父親は区議会議員の連城幸四郎か」
有紀は、うつむいたままでかすかに笑った。
「……さあね、秘密」
「……何が不満で売春まがいのことをする」
「……イロイロ……女の子は物入りだから」
隣から、呆れたように嘆息する気配があった。
「言っておくが、連絡先なんて簡単に割り出せる。親父さんに連絡して、何もかもばらしてやってもいいんだぞ」
「御守さん」
有紀は、少し声を荒げてみた。
「私のこと、これ以上詮索するようなら、この話はもう終わり。私は少しの間、住む場所とパートナーが欲しいだけ、いちいち干渉されるのはまっぴらだよ」
「……欲しいのは住む場所か、パートナーか、それとも金か」
御守の声が冷たくなる。
「全部、……あなたは、全部持ってそうだった」
「金は確かにあるがな、……君が俺を選んだのは、それが理由か」
有紀は、少し頬を赤らめた。
「それだけじゃない……あなたが、……すてきな人だったから」
「ふぅん……」
どこか疑うように目を細め、御守はわずかに息を吐いた。
「どうして、あの時、君は会社のロビーにいたんだ」
「……知ってたから」
「何を、」
有紀は嘆息した。「これが最後の質問?それとも、私、ここで車を降りようか」
渋滞で込み合う道路、信号が赤になったのか、車が緩やかに停車した。
御守が、初めて視線を向ける気配がした。
「降りてどうする。俺が駄目なら、お前は別のカモを探すのか」
「……関係ないでしょ、そんなこと」
うつむいたままでそう言った途端、ふいに頭上から影が被さってきた。甘い香り。柔らかな圧力が肩にかかる。
「………?」
驚いて顔を上げるのと、あごをすくわれたのが同時だった。何を言う間もなく、唐突に冷たい唇が重ねられる。
――――うそ……、マジ???
混乱して、眼を閉じることもできなかった。
あまりにも間近で、相手の顔の輪郭さえわからない。
冷たくて乾いた唇。包み込まれるようなフレグランス。肩を抱く大きな腕。
前の運転席には長瀬と呼ばれた男がいる。―――バックミラーで見えるよ、……ねぇ。
心臓がドキドキしている。固まったまま動けない唇から、男の唇がわずかに離れた。
「……お前、自分が俺に何を言ったのか、本当にその意味を理解してるのか?」
その距離を保ったまま、御守は囁いた。
「してるよ、……当たり前じゃん」
「だったら、何をもったいぶってる、口くらい開けないか」
その言葉で、有紀は耳まで赤くなった。暗くてよかった――そう思いながら、無言で首を横に振る。
「ま、まだ……」
「まだ?」
そう言った唇が、また近づく。
「私の条件……っ、聞いてくれるの?くれないの?」
顔を背け、両腕を思い切り突っ張った。被さっていた男の肩を押し戻す。――多分、本気になったら容易に抵抗することはできないのだろう。けれど、御守はすんなりと身体を引いた。
「あ、あれこれ詮索しないって約束して、私のこと」
「………ひとまずは約束しよう、詮索はしない」
「ホントだね」
「約束だ」
有紀はほっとして、同時に取り乱した自分が少し悔しくなった。
御守は何事もなかったように前を向き、腕を組み直している。その横顔は平然として、一滴も乱れてはいない。
長瀬、と呼ばれた男の背中も、みじんも動じてはいないようだ。
こういったことに慣れているのか、背後の二人を意識すらしていないように見える。
御守の唇が、静かに動いた。
「最後の質問には答えろ、君は何故、私の会社のロビーにいたんだ」
キスを受けた唇が濡れている。有紀はそれを指で拭った。
「………私、あなたの会社が造った街を見たことがあるから」
「なんだと?」
「買収から、計画、造成まで、全部あなたの会社が手がけた街だよ。……だから、知ってた、すごく大きい会社で、あなたがお金持ちってことくらいはね。ヒントはそれだけ。これ以上私のこと、知ろうとは思わないで」