聞こえる、恋の唄
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第9章
「志野の決意」
………<4>………

身の周りの物をまとめると、荷は、驚くほど少なかった。

小さな包みと三味線だけ。

それが、志野が櫻井家で過ごした全てだった。

目を合わせてくれないままの女主人に挨拶を済ませ、志野は櫻井家の門扉をくぐった。

これまでとは違い、出てしまえば二度と戻れない道だった。

門の側に、長身の人影が立っている。

歩きだそうとした志野は足を止めた。

陸軍のキャメル色の軍服につば付きの帽子、肩に羽織った黒のマント。
陽射しが眩しいのか、雅流は少しだけ眼をすがめ、志野の前に立ちふさがった。

「今から、行かれるのですか」

志野が口にできたのはそれだけだった。

「挨拶に……まだ、正式に配属されたわけではないから」

雅流は静かな口調でそう答える。

どこか遠くで、規則正しい掛け声が響く。

ああそうだ、今日は隣町で竹槍の訓練がある日だった――志野はぼんやり、そんな関係ないことを考えていた。

しばらくの沈黙の後、ようやく、思いつめたような声がした。

「断った理由は、高岡のことだけか」

一時、逡巡し、志野はうつむいたままで首を振った。

「……許せないのです」

雅流が何か言う前に、志野は思い切って顔を上げた。

「私が、雅流様を許せないのです」

影を帯びた雅流の端正な顔が、初めて苦しげに歪んだように見えた。

「雅流様にどのような事情があろうと、あの離れで、雅流様と薫様に受けた仕打ちを、私は、おそらく生涯忘れられないと思います。いいえ、もう忘れてしまいたいのです。ですから、あなたの顔を、もう二度と見たくはないのです」

雅流が何かを言いかける。
志野は、それを遮るように口を挟んだ。

「私への罪滅ぼしにあのようなことを仰られたのなら、どうかもう忘れてください。二度と私に係わらないでください。二度と私に、あの夜のことを思い出させないでください」

雅流の顔を、もう志野は見ることができなかった。

「夫となる人に、私、何も言ってはいないのです。お願いします……どうか、もう私に係わらないと約束なさってください」

「もういい」

うめくような声がした。

「もういい、志野、俺がうぬぼれていた、俺が莫迦だった。お前の言う通りにする、もうお前には二度と係わらない、兄貴にも係わらせない、約束する」

やがて去っていく足音を聞きながら、志野は小さく、ご武運をお祈りしています、と呟いた。

振り返っても門扉が見えなくなるところまで歩き、そこで初めて志野は両手で顔を覆った。

抑えても抑え切れない涙が後から後から頬を伝い、やがて声を上げて志野は泣いた。






(第一部 終)

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