■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第9章 「志野の決意」 |
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身の周りの物をまとめると、荷は、驚くほど少なかった。 小さな包みと三味線だけ。 それが、志野が櫻井家で過ごした全てだった。 目を合わせてくれないままの女主人に挨拶を済ませ、志野は櫻井家の門扉をくぐった。 これまでとは違い、出てしまえば二度と戻れない道だった。 門の側に、長身の人影が立っている。 歩きだそうとした志野は足を止めた。 陸軍のキャメル色の軍服につば付きの帽子、肩に羽織った黒のマント。 陽射しが眩しいのか、雅流は少しだけ眼をすがめ、志野の前に立ちふさがった。 「今から、行かれるのですか」 志野が口にできたのはそれだけだった。 「挨拶に……まだ、正式に配属されたわけではないから」 雅流は静かな口調でそう答える。 どこか遠くで、規則正しい掛け声が響く。 ああそうだ、今日は隣町で竹槍の訓練がある日だった――志野はぼんやり、そんな関係ないことを考えていた。 しばらくの沈黙の後、ようやく、思いつめたような声がした。 「断った理由は、高岡のことだけか」 一時、逡巡し、志野はうつむいたままで首を振った。 「……許せないのです」 雅流が何か言う前に、志野は思い切って顔を上げた。 「私が、雅流様を許せないのです」 影を帯びた雅流の端正な顔が、初めて苦しげに歪んだように見えた。 「雅流様にどのような事情があろうと、あの離れで、雅流様と薫様に受けた仕打ちを、私は、おそらく生涯忘れられないと思います。いいえ、もう忘れてしまいたいのです。ですから、あなたの顔を、もう二度と見たくはないのです」 雅流が何かを言いかける。 志野は、それを遮るように口を挟んだ。 「私への罪滅ぼしにあのようなことを仰られたのなら、どうかもう忘れてください。二度と私に係わらないでください。二度と私に、あの夜のことを思い出させないでください」 雅流の顔を、もう志野は見ることができなかった。 「夫となる人に、私、何も言ってはいないのです。お願いします……どうか、もう私に係わらないと約束なさってください」 「もういい」 うめくような声がした。 「もういい、志野、俺がうぬぼれていた、俺が莫迦だった。お前の言う通りにする、もうお前には二度と係わらない、兄貴にも係わらせない、約束する」 やがて去っていく足音を聞きながら、志野は小さく、ご武運をお祈りしています、と呟いた。 振り返っても門扉が見えなくなるところまで歩き、そこで初めて志野は両手で顔を覆った。 抑えても抑え切れない涙が後から後から頬を伝い、やがて声を上げて志野は泣いた。 (第一部 終) |
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