聞こえる、恋の唄
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第9章
「志野の決意」
………<3>………

「……志野、とにかく、お入り」

これでは先が思いやられる……。
御園は内心で舌打ちをした。

おそらく鴨居子爵は、苦々しい思いで姪となる女性を見つめているに違いない。

「志野」

動こうとしない志野に焦れて、再度呼びかけた時だった。

「おそれながら……」

低頭した姿勢のまま、顔をあげない志野から、細い、糸のような声がした。

「おそれながら、申し上げます」

志野はぎこちなく顔を上げた。
姿勢は土下座のまま、手は床についたままだった。

いつも臆さず人を見る目が、どこか苦しげに伏せられている。

「このたびのお話を……お話を聞いた時は、ただただ、恐れ入りまして、夢にも思っていなかったことに、不様に混乱するばかりでございまして……上手く……その場で、お返事をすることができなかったことを、心からお詫びいたします」

御園は、初めて、はっと胸を突かれるような思いで顔を上げた。

この娘は――志野は、縁談を断るつもりでいるのだ。
まさか――そんなことを、ここまで雅流や自分たちが奔走し、ようやくまとめあげたものを――断る。
今さら、そんな恩知らずなことを、この娘がするだろうか。

「一時でも、妻にと仰ってくださった雅流様。結婚を認めると仰って下さった奥様。養女のお世話をしてくださった鴨居様、鞠子様には、なんと……どのように、感謝していいものやら、御礼を言っていいものやら、無学な私にはわかりません。言葉にしようがございません。……けれど」

そこで言葉を切り、志野は再び頭を下げた。

畳についている指が震えている。
けれど声だけはしっかりとしていた。

「雅流様のお話を頂く前に、私、とある方と結婚の約束をしたのでございます。その方もまた戦地に赴かれる身、ご恩になった奥様や……雅流様の……」

御園は、咄嗟に雅流の顔色をうかがっていた。

わずかにうつむいたきり、雅流はやはり沈鬱な目をしたまま、黙って志野を見つめているようだった。

「ご恩に報いたい気持ちは重々ございますが、待っていて欲しいと言って戦地へ旅立ったその方を、裏切る真似だけはできません。それこそ人道に背く事、私には……そのような真似はできません」

「志野、お前は何様のつもり?」

激昂した声でそう言い、立ち上がったのは鞠子だった。

「よくもまぁ、そんな思い上がった口が聞けたものね。くどくど言い訳しなくても、お前みたいな女はこちらから願い下げよ」

それでも収まりがつかないのか、鞠子は傍にあった鴨居子爵の扇子を取り上げ、思い切り土下座する女の背に投げつけた。

「出ておいき。お母様には、別の女中を探してきます。すぐにこの家を出ておいき!」

「鞠子」

ようやく――冷静に今の事態を飲み込んだ御園は、かろうじて鞠子を制した。

そして、いまだ動かないままの志野を見下ろした。

「志野、それが嘘でないというのなら言ってご覧。お前の相手はどなたなの」

「……おそれながら」

 高岡兵馬様でございます。

それは、先日ここを辞して実家に戻り、明日にも入隊するはずの、若い書生の名前だった。

なんてことだろう――御園は憤りと恥ずかしさで、耳まで赤くなるようだった。

確かに当人の意思を確認しなかった私も悪かった。
けれど、よもや志野が断るなど、想像してもいなかったのだ。

しかも、別の男性と婚約していたなど――大切な息子の、晴れの出征を前にして、なんて、なんて恥さらしな。

御園は怒りと眩暈をこらえ、もう顔もみたくない女から視線を逸らした。

「判りました……高岡の家とは、遠縁とはいえ、縁続き、何かお祝いをいたしましょう。面倒をかけてすまなかったわね。もう下がってよろしい」

それでも御園は、わずかな可能性を信じ、その日の内に高岡家に使いをやった。

が、返って来た返事は、志野の言葉を裏づけするものだった。

確かに、うちの息子と志野さんは婚約している。
先日息子から正式に聞かされた。志野さんは、そちらでお暇を取れ次第、うちに来ていただくことになっている――。

返事は概ねそういうものであった。

御園は激しい怒りと失望と、この家の体面を守れたという安堵を同時に感じていた。

雅流と志野の結婚についていえば、確かに御園は不満だった。

志野がどうこういうのではない。
結婚とは家同士がするものである。
そうである以上、つり合いの取れた格式は、やはり結婚相手には必要なのだ。

が、それ以上に、御園は志野が可愛かった。

実の子以上に慈しみ、大切に育ててきた娘である。
それゆえに、こういった形で騙し打ちのように裏切られたことが、どう考えても許しがたいし、口惜しい。

雅流が志野を選んだことも、志野がそれを断ったことも、御園にとっては、人生の失望以外のなにものでもなかったのである。

「雅流、志野は、明日にでも家を出ていくそうですよ」

その夜、雅流を呼び出した御園は、激しい口調で言い棄てた。

「あの子はああいう娘だったのですよ。そう思って諦めなさい。高岡はいい青年です。きっと志野も幸せになるでしょうよ」

雅流は目を伏せ、わずかに唇を引き結んだだけだった。


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