聞こえる、恋の唄
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第9章
「志野の決意」
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「よう」

夕闇の中、洗濯物を取り込んでいる時だった。

志野は手をとめ、身体を強張らせたまま振り返った。

「聞いたぜ、お前、雅と婚約するんだってな」

食事を運ぶ時に顔を見ることは毎日だった。
けれどこうして外で顔をあわせるのは久しぶりだ。

志野は顔を伏せたまま、間近に近寄ってくる薫の気配を感じていた。

今日訪ねてきた綾女のせいだろうか。薫は、長く伸びた髪を後ろで束ね、わずかに無精髭の名残があるものの、いつもよりは格段にさっぱりとした風体をしていた。

が、頬はこけ、顎は怖いくらい研ぎ澄まされ、肌の色は、どう見ても健康を損ねているとしか思えない。

ポケットに手をつっこみながら、薫はあざけるような口調で言った。

「莫迦だ莫迦だと思ってたが、あそこまで莫迦な男だとは思わなかった。どうせ近々この戦争は終わる。黙ってやりすごせば助かる命を、むざむざ死にに行くなんてな」

目の前の男を――殴り飛ばしたい衝動をじっと耐え、志野はただ、うつむいていた。

「おかげで俺は助かったよ。先日も陸軍大尉って人が家に来たが、俺の顔をみて、溜息ついて出て行った。酒も飲みすぎてみるもんだな。本当に身体を壊しちまったようだが、それでも戦争で死ぬよりはずっとマシだ」

ここにもまた、浅ましく生きたいと願う人間がいる。

薫を憎く思う気持ちはなかったが、同時に志野は理解した。

ひとつの生が輝く時、必ず影には、誰かの犠牲が存在するものなのだと。

「婚約祝いに、いいことを教えてやるよ」

薫は笑った。病み疲れた笑みに、荒(すさ)んだものが見え隠れしている。

この人も辛いのだろうか――ふと、そんなことを考えてしまっていた。

けれど次に耳に入ってきた言葉が、志野の身体を思考ごと凍りつかせていた。

「雅流はな、親父の実の子じゃないんだよ」

目を見開いた志野は、薫を見あげた。

鼻でかすかに笑い、薫は煩げに前髪を指で払った。

「お袋と、綺堂男爵の間に出来た不義の子なのさ。お袋と男爵、それから死んだ親父しか知らないことだがね。俺は親父から聞かされていたが、当の雅流は知らなかった。親父は、もっと早く雅流に言うべきだったんだ。だからああいう過ちが起きる」

どういうことなのだろうか。

雅流が綺堂男爵の子ということになるのなら――雅流と綾女は。

「綾女は、実の兄とも知らずに雅流に惹かれて、雅流も情に流されちまった。あいつがどれだけ悔いて、苦しんだと思う? このことは綾女に言わないでくれ、絶対に言わないでくれ――雅流は俺に土下座して懇願した。その時から、奴は俺の奴隷になったのさ」

衝撃で足が震えた。
いつだったか、夕暮れ、焼却炉の前で、苦しげにうつむいていた雅流の横顔が蘇る。

「綾女は、だからまだ、真実を知らないよ。お前と雅流の婚約を俺に話す時、妙に明るく笑ってはいたがね。……内心じゃまだ雅流への未練たらたらだろうよ」

動けないままでいる志野の顎を、薫はいたずらでもするように掴みあげ、自分のほうに向けさせた。

「雅流は、子供の頃からお前が好きだったのさ。最初は冗談だと思ったが、どうやら本気だったらしい。だから俺は、あいつの目の前でお前を抱くことに決めたんだ。それが俺たちが交わした取引で、俺の婚約者を、近親相姦で汚したあいつへの復讐だ」

信じられない。

いや――信じては、いけない。

志野は自分に言い聞かせた。

そんなことはない、ありえない。

「それにしても、愉快じゃないか。俺が散々、雅流の前で泣かせた女が、俺の妹になるなんてね。惨めだねぇ。俺はお前の顔を見るたびに、あの時の顔を思い出すよ。多分、一生忘れないよ」

冷やかな指が離れても、志野は動けないままだった。

「そういう汚れきった女を嫁にする男の気がしれないね。雅流はやっぱり異常だよ。結局は不義の子だって、お袋も心底がっかりしただろうさ」


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