聞こえる、恋の唄
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第8章
「悲しき求婚」
………<4>………

「櫻井伯爵様がお亡くなりになってから、変わりましたわ、雅流様は」

静かな口調で、綾女はやはり寂しげに微笑した。

「本来のご当主は薫様なのでしょうが、今は雅流様がお一人で、全ての責任を取って回られているそうです。志野さんの耳にも、いずれ伝わるとは思いますけれど」

責任――、もしかして、借財のことだろうか。

志野は暗い気持ちで眉をひそめたまま、グラスの水滴を布巾で拭う。

「薫様は、随分弱い方なのですね。今まで思いもしませんでした。雅流様は、とてもお強くていらっしゃるのに」

綾女の笑顔は、いつになくぎこちなかった。

それはまるで、自分の中から無理に恋人との思い出を消し去ろうとしているようにもみえた。

「そのお水、薫様にさしあげたいのだけど」

「私、お運びいたします」

志野がグラスを盆に載せながらそう言うと、綾女は無言で首を振った。

「いいえ、私が持っていきますわ。何にも出来ないけれど、今は、薫様の傍についていてさしあげたいんです」

櫻井家の没落は、色んな意味で、人の心に潜んでいた本性を炙り出したのかもしれない――。

去っていく綾女の背中を見ながら、志野はふと、そんなことを思っていた。

綾女は、決して薫を嫌ってはいない。
むしろ、強い情愛を抱いている。

ただ――それ以上に雅流に惹かれてしまっただけなのだ。

(雅流様は……)

志野は、静かな思いで考えていた。

本当は、優しくて真面目な人だったのかもしれない。

気弱でプライドの高い兄への遠慮が、彼をして、自堕落な態度を取らせていただけなのかもしれない。

思えば雅流は、いつも薫に遠慮していたような気がする。

三味線でもそうだ。
才能の差は明らかなのに、黒川の家元の前で、雅流が本気で演奏したことは一度もない。

でも、それは何故だろう。
単なる兄思いと一言で括るには、極端すぎるような気もする。

愛する女まで譲ってしまう心理が、志野にはどうしても理解できない。

日々、慌しく奔走している雅流とは、あれきり口を聞くこともなくなった。

時折家中で目が合うことがあっても、先に逸らしてしまうのは志野の方だった。

あれは、夢だったのだ。

志野はそう自分に言い聞かせていた。

夢を、現実と錯覚してはいけない……。

「志野」

久しぶりに聞く声に、優しく呼ばれたのはその時だった。

志野は驚き、床に膝をつきそうになっていた。

「おいで、お前に大切な話があります」

ふいに現れた御園は、かすかに笑って痩せた背を向けると、そのまま台所を出て行った。


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