聞こえる、恋の唄
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第8章
「悲しき求婚」
………<3>………

台所に戻った志野は、そこに現れた人を見て、さすがに驚いて顔をあげた。

「……綾女様」

婚約はとうに解消になり、美貌の令嬢は櫻井家に出入りする事を固く禁じられているはずだった。

実際、伯爵の事件以来、志野が綾女を見るのはこれが初めてのことである。

「ごめんなさい、お水を一杯いただけるかしら」

美しい眉を寄せ、綾女は寂しげな笑みを浮かべた。

久しく会わなかった綾女は、髪をおさげに編み分け、黒ずんだシャツに絣(かすり)のモンペを穿いていた。

あまりの変容ぶりに、志野は言葉を失っている。

「どう? 似合うでしょう? 先ほどまで、町内で竹槍の訓練があったものだから」

綾女は楽しげににっこりと笑う。

この天真爛漫な女性には、衣服や境遇の変化など、さほど問題ではないらしい。

志野が黙っていると、綾女は静かに笑顔を曇らせた。

「……薫さまに会いに来たのだけれど、……ご酒をお召しになっておられて」

「最近、少しお疲れのようですから」

志野は言い繕ったが、薫の深酒は毎日のことだった。

食事を一切取らない代わりに酒を飲む。
ひどく痩せ、肌も乾き、無精髭など伸び放題になっている。

かつての美貌など跡形もない。
そして、人前には絶対に出ない。

出れば兵に志願しろと言われる、それを恐れて隠れているのだ。

「こちらにお出でになられても、よろしかったのでしょうか」

志野はグラスを棚から出しながら、背後に立つ綾女にそっと訊いた。

わずかな沈黙があった。
返事がないことを不思議に思って振り返ると、綾女は、口許に不思議な微笑を浮かべていた。

「志野さんは、ご存じありませんでしたのね」

「何を、でしょうか」

問い返しても、綾女はやはり、掴み所のない笑い方をするだけだった。

そして何かを振り切るように顔を上げると、思いのほかしっかりとした眼で志野を見つめた。

「父からお許しがいただけて、私と薫様、もう一度婚約することになったんです。雅流様が、父を説得してくださったので」

雅流様が。

志野は内心、動揺しながら、グラスに水を注ぎいれた。

では、雅流はわざわざ――兄と、自分の想い人との婚約を取りまとめに行ったのだろうか。

「本当に雅流様が、そのような?」

つい口にしてしまった僭越な言葉を、志野は慌てて取り繕う。

「あの、しっかりしていらっしゃいますけど、まだお若くていらっしゃいますから」

大人びていても、雅流はまだ十八歳である。
しかも櫻井家の当主ですらない。

落ちるところまで落ちた櫻井家に一人娘を嫁がせる――そのような難易な交渉を、本当に雅流一人の力で成し得たのだろうか。


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