聞こえる、恋の唄
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第8章
「悲しき求婚」
………<1>………

「志野さん」

洗濯物を干す手を止め、志野は声のする方を振り返った。

まだ明けきらない朝の陽射しを浴びて立っていたのは、志野と共にこの家に残った書生、高岡兵馬である。

いつものように国民服を着て、少しはにかんだような優しい笑みを浮かべている。

「おはようございます」

志野は丁寧に一礼した。

こんなことになるまで、ほとんど口も聞いたことがない男だったが、女中たちが皆いなくなり、食料を分けてくれる店もなくなった今では、彼の男手だけが頼りだった。

日に一度は、高岡と共に郊外の田舎に出かけ、農作業を手伝う代わりに食料を分けてもらう。

病がちで徴兵検査に落ちたという高岡は、今ではすっかり健康を取り戻していて、身軽によく動き、闊達で話しやすい、きさくな人柄を有していた。

今朝も高岡は、彼らしい笑みを浮かべて志野の方に歩み寄ってきた。

「なんだか浮かない顔をしていますね。いや、今朝に限らず、最近はずっとそう思っていましたが」

「こういうご時世ですもの、明るい顔はできません」

あえて明るくそう答えながら、意外に鋭い高岡の感じ方に、内心どきっとするものを感じていた。

確かに最近――志野は憂鬱に違いなかった。

伯爵の自殺に伴い、薫、雅流の婚約が次々と解消になり、櫻井家の破産が決定的になったからではない。

志野が気がかりなのは、別人のようによそよそしくなってしまった御園の態度のことである。

始終溜息ばかりついている。
志野が傍に行くと、露骨に顔を背け、目を合わせようともしない。

口を聞いても、かつてのような親しみがまるで感じられないのだ。

燈火管制が厳しくなり、夜、明りをつけて三味線の稽古をすることは不可能になっていた。

そのせいだろうか――御園と志野の関係は、ただの主人の下女のそれに成り下がってしまったような気がする。

そして、女主人の態度の変化について、志野には一点の気がかりがあった。

(お前のその服は、確か、裏庭の納屋にあったのではなかったかしらね)

雅流と納屋で会っていた夜、勘のいい御園は、敏感に何かを察したのかもしれない。 

もし、あの夜のことが原因なら、志野は櫻井家を辞する覚悟を決めていた。

「手伝いましょうか、なんだか一人で大変そうだ」

高岡の声が、志野を現実に引き戻す。



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