■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第7章 「接吻の夜」 |
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「志野、お前……どこへ行っていたの」 屋敷に戻ると、血相を変えて出迎えてくれたのは、意外にも女主人の御園だった。 「申し訳ありません、服を駄目にしてしまいまして」 志野の着ているお仕着せの着物を見て、御園は一時いぶかしげな目になったものの、すぐにほうっとしたように肩を落とした。 「驚かせないでおくれ、この上、お前までもいなくなったら……」 いなくなる? 手をついたまま、けげんな顔で主人を見上げると、御園は暗い面差しで微かに笑んだ。 「他の者には申し伝えたことですけれど、旦那様があらぬ件疑をかけられて、港で姿を消されたのですよ」 「え……?」 御園の言葉が、すぐには理解できなかった。 旦那様とは、むろん櫻井伯爵のことだ。 あらぬ――件疑? 「今、特高警察の方が、伯爵の行方を捜しておいでです。この屋敷にも、いずれ捜索の手が入るでしょう。お前も覚悟しておいで」 特高警察。 志野は顔を強張らせていた。昼間聞いたばかりのその言葉が意味すること――。 櫻井伯爵は、思想犯として投獄されてしまうのかもしれないのだ。 「お前のその服は」 背を向けながら、御園は何気ないような口調で言った。 「確か、裏庭の納屋にあったのではなかったかしらね」 「……私、一枚だけ手元にしまっておいたものですから」 咄嗟に出た嘘だった。 「そう」 御園はやはり、何事もないように軽く頷き、そのまま自室に戻っていった。 志野の耳朶にひらめいたのは、「雅流、どうなの?」という、どこか逼迫した女主人の言葉だった。 彼らはあの時、納屋の中に伯爵が隠れているのではないか――それを期待して扉を開けたのだ。 暗く沈んだ屋敷の中で、ひそひそと溜息のような囁きが、その夜は絶えることなく続いていた。 あたかも、沈没間際の船から、子ネズミたちが逃げ出す算段をしているようだった。 遠い夜の向こうから聞こえる空襲警報を聞きながら、志野もまた、まんじりともできなかった。 翌日になると全ての事実が明らかになった。 というより、新聞が、号外が、嫌でも事件の顛末を明らかにしてくれた。 櫻井伯爵は、特高に追われていた思想犯の逃亡を、欧州でひそかに手助けしていたのである。 帰国した伯爵を、港で憲兵が待ち受けていた。 しかし、船の中でいち早く危険を察した男は、どこへ消えたものか、憲兵の前に姿を現さなかったらしい。 確かに帰国したものの、港で憲兵をまいて、そのまま身を隠してしまったようなのだ。 屋敷の中は、容赦ない探索の手で荒らされるだけ荒らされた。 御園も雅流も、そして薫も、何度か特高に呼ばれ、事情聴取を受けさせられたようだった。 警察より早いのは世間の反応で、出入り業者の殆んどが、こちらにはもう、物資をお売りできませんと言ってきた。 近所の者は目もあわせなくなり、夜中に投石されるのも、門扉の前に張り紙を張られるのも、日常茶飯事になっていった。 女中たちは相次いで退職し、書生たちも荷を抱えて出て行った。 広い屋敷に取り残されたのは、逃げ場のない家族たちと――志野、そして櫻井家の遠縁にあたる高岡という若い書生だけだった。 御園はごっそりと痩せ、薫は離れに引きこもり、雅流だけが事後処理に奔走していた。 伯爵が異国風の女と伊豆の旅館で心中したと報じられたのは、港の事件から二週間後のことだった。 |
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