聞こえる、恋の唄
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第7章
「接吻の夜」
………<5>………

「志野、お前……どこへ行っていたの」

屋敷に戻ると、血相を変えて出迎えてくれたのは、意外にも女主人の御園だった。

「申し訳ありません、服を駄目にしてしまいまして」

志野の着ているお仕着せの着物を見て、御園は一時いぶかしげな目になったものの、すぐにほうっとしたように肩を落とした。

「驚かせないでおくれ、この上、お前までもいなくなったら……」

いなくなる?

手をついたまま、けげんな顔で主人を見上げると、御園は暗い面差しで微かに笑んだ。

「他の者には申し伝えたことですけれど、旦那様があらぬ件疑をかけられて、港で姿を消されたのですよ」

「え……?」

御園の言葉が、すぐには理解できなかった。

旦那様とは、むろん櫻井伯爵のことだ。

あらぬ――件疑?

「今、特高警察の方が、伯爵の行方を捜しておいでです。この屋敷にも、いずれ捜索の手が入るでしょう。お前も覚悟しておいで」

特高警察。

志野は顔を強張らせていた。昼間聞いたばかりのその言葉が意味すること――。

櫻井伯爵は、思想犯として投獄されてしまうのかもしれないのだ。

「お前のその服は」

背を向けながら、御園は何気ないような口調で言った。

「確か、裏庭の納屋にあったのではなかったかしらね」

「……私、一枚だけ手元にしまっておいたものですから」

咄嗟に出た嘘だった。

「そう」

御園はやはり、何事もないように軽く頷き、そのまま自室に戻っていった。

志野の耳朶にひらめいたのは、「雅流、どうなの?」という、どこか逼迫した女主人の言葉だった。

彼らはあの時、納屋の中に伯爵が隠れているのではないか――それを期待して扉を開けたのだ。

暗く沈んだ屋敷の中で、ひそひそと溜息のような囁きが、その夜は絶えることなく続いていた。

あたかも、沈没間際の船から、子ネズミたちが逃げ出す算段をしているようだった。

遠い夜の向こうから聞こえる空襲警報を聞きながら、志野もまた、まんじりともできなかった。

翌日になると全ての事実が明らかになった。

というより、新聞が、号外が、嫌でも事件の顛末を明らかにしてくれた。

櫻井伯爵は、特高に追われていた思想犯の逃亡を、欧州でひそかに手助けしていたのである。

帰国した伯爵を、港で憲兵が待ち受けていた。

しかし、船の中でいち早く危険を察した男は、どこへ消えたものか、憲兵の前に姿を現さなかったらしい。

確かに帰国したものの、港で憲兵をまいて、そのまま身を隠してしまったようなのだ。

屋敷の中は、容赦ない探索の手で荒らされるだけ荒らされた。

御園も雅流も、そして薫も、何度か特高に呼ばれ、事情聴取を受けさせられたようだった。

警察より早いのは世間の反応で、出入り業者の殆んどが、こちらにはもう、物資をお売りできませんと言ってきた。

近所の者は目もあわせなくなり、夜中に投石されるのも、門扉の前に張り紙を張られるのも、日常茶飯事になっていった。

女中たちは相次いで退職し、書生たちも荷を抱えて出て行った。

広い屋敷に取り残されたのは、逃げ場のない家族たちと――志野、そして櫻井家の遠縁にあたる高岡という若い書生だけだった。

御園はごっそりと痩せ、薫は離れに引きこもり、雅流だけが事後処理に奔走していた。

伯爵が異国風の女と伊豆の旅館で心中したと報じられたのは、港の事件から二週間後のことだった。



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