聞こえる、恋の唄
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第6章
「涙雨」
………<4>………

いつの頃からか、ふいに荒んでしまったような薫の変化の理由が、志野にはようやく理解できたような気がした。

一見軽薄にしか見えない薫は、薫なりに、年下の婚約者を大切にしていたのだ。

それを――弟に奪われたのだ。

ただ、やはりそれでも、志野には、自分が引き合いに出された理由が判らなかった。

綾女と志野なら、比べるまでもない。

男爵の令嬢と、身寄りのない芸者の娘。
比較するほうがどうかしている。

薫にとっても雅流にとっても、志野など掃いて棄てるような存在なのに、どうして二人が交したという取引の中に、自分の名前が出てくるのか判らない。

「お前も綾女と同じだ、志野。もうまともな結婚なんてできやしないぜ」

憎憎しげに吐き棄てた薫は、ぺっと畳に唾を吐いた。

「やるなら、とっととやっちまえよ。雅流が帰ってきたら面倒なことになる」

そして、面倒そうに言い捨てると、そのまま不機嫌気に立ちあがった。

志野の視界に、投げ出された三味線と撥が映った。

肩をつかまれ、仰向けに倒される刹那に、必死で伸ばした腕が、落ちていた撥をすくい上げた。

「あっ」

誰かが叫ぶ。

背に乗っていた男が、ひるんだように飛びのく。

志野は、掴み取った撥を自分の首筋に押し当てていた。

「莫迦っ、やめろっ」

初めて聞くような声で、飛び掛ってきたのは薫だった。

腕を強く掴まれる。
見下ろす男も必死の形相になっている。

ぎりぎりとねじられ、力尽きて――手にしていた撥が畳に落ちた。

同時に身体を拘束していた薫の手も離れる。

肩で息をしながら、志野は膝で這うようにして、部屋の隅に逃げた。

唇から零れた血が、ブラウスを赤く染めている。

「……莫迦な女だ」

舌打ちしながら薫が苛立った声で言った。

その他の者は、あまりに凄惨な展開に、さすがに声もなく黙りこくっている。

「とんだ興ざめだ。とっとと出て行け、もう、お前の顔は見たくもない」

三味線を拾い上げ、志野は逃げるように離れを飛び出した。

何時の間にか振り出した小雨が、熱くなった身体に降り注ぐ。

ひどく惨めで、心細かった。

自分の身の上を哀れと思ったことは一度もない。
むしろ幸福だとさえ思っていた。
綾女や鞠子を同じ女性として羨んだことも一度もない――でも。

志野は立ち止まった。

破れたブラウス、白地に滲んだ赤い染み。

いくらなんでも、この格好で母屋には戻れない。

雨は容赦なく手にした三味線を濡らしていく。
皮は水に弱い。このままでは駄目になる。

零れそうな涙を堪え、志野は三味線を抱き締めるようにして歩き出した。


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