聞こえる、恋の唄
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第6章
「涙雨」
………<3>………

薫は――あっけないほど簡単に背後の襖に背をぶつけて、そのまま茫然と顔を上げる。

「おいっ」

「逃げるぞ、掴まえろ」

伸びてくる腕に、思い切り噛み付いた。
背後からブラウスをつかまれ、衣服が破れる音がした。

それでも必死に、見苦しいほど必死に暴れて抗った。
無駄だと判っていても、この場から逃げようと試みた。

やがて背中から押さえつけられて、うつぶせに倒された志野は、苦しい呼吸で目の前に座る薫を見上げた。

「……別人みたいに暴れるんだな」

見下ろす薫の目は笑っていた。

冷酷な笑いは、元が美しいゆえに、ぞっとするほど恐ろしい。

「雅がいなきゃ駄目ってわけか。お前ら、なんだ? できてたのか?」

口の中を切ったのか、生温い銅の味が広がっていく。

それは唇の端から伝わって、蒼白い畳に染みを作った。

薫は笑った。

「言っとくけどな、決めたのは全部雅なんだぜ。俺は言ったんだ、最後に決めるのはお前だぜ、雅って」

背中からのしかかられる重みで、視界が白く霞んでいく。

「取引したんだよ、俺たちは。雅も莫迦な男だよ、俺を甘くみて綾女に手を出すからこんなことになる」

意味が判らなかった。

(決めたのは全部雅なんだぜ)

薫の言葉だけが、何かの断片のように頭の中で回っている。

何を決めたのだろう。もしかして今夜のことだろうか。
それとも今までのことだろうか。

そんなことで、今さら、傷つく必要はないと判っている。
それでも、でも――。

「取引って……」

志野は、途切れそうな意識を振り絞って訊いた。

「どういう意味なんですか……どうして、私が」

「雅に聞けよ。ただ、ひとつだけ教えてやるよ。雅が大切にしているのは綾女だよ。あいつはな、綾女を守るために、お前を俺に差し出したんだ」

「……わ、たし……?」

ますます意味が判らなかった。

顔を歪めながら薫は続けた。

「どうせ綾女は形だけの婚約者だ。綾女の奴、大人しい顔をして、ずうっと雅流を誘惑していやがった。雅流も莫迦だ。もう綾女は生娘じゃない、俺がもらってやらなきゃ、どこへも嫁に行けやしない」

投げやりな、泣き笑いのような声だった。


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