聞こえる、恋の唄
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第6章
「涙雨」
………<2>………

雅流の顔はない。
不思議な安堵と絶望が、同時に志野の中に込み上げる。
 
「どうする、自分で脱いでもらおうか」

囁くような声が近くなる。

「服くらいで、いちいち相談するなよ。こんなもの、脱がしてしまえばいいんだ」

そう言って、一番にのしかかってきたのは、薫だった。

「奥様と雅流様が!」

畳の上に仰向けに倒されながら、志野は声を張り上げた。

自分でも、こんな大きな声が出せるのが信じられなかった。

「うるさいな、なんだよ」

意外な反応に驚いたのか、煩げな声で薫が応える。

酔いのせいだろうか、動きも緩慢で、眼もぼんやりと濁って見える。

「まだ、お戻りにならないのです」

「それがなんだよ」

薫の手が、ブラウスのボタンにかかる。

志野には理解できなかった。

何故だろう、婚礼を目前にして、どうしてこんな真似ができるのだろう。
ここ数ヶ月、ずっと真面目だった薫が急変する理由が判らない。

志野が浅草に出かけている間に、何か、重大な異変があったのだ、そうとしか思えない。

顔を背けながら、志野はそれでも大声で叫んだ。

「お、お二人が何処へ行かれたか、ご存知ありませんか。皆、心配しております!」

「知ってるよ、でもお前には関係ないだろ」

「俺が最初でいいだろ、櫻井」

聞こえてきた声に吐き気がした。
嫌悪と虚しさで、何もかもどうでもいいような――そんな気持ちになりかけていた。

いつものことだ。

志野は思った。

いつものように、心を殺して時が過ぎるのを待てばいいだけ。

それでも、気持ちはざわめいたまま落ち着かなかった。

何故だろう。
いつもとは違っている。

眉をひそめた志野は気がついた。

何よりも耐えがたかったはずの、雅流の三味線の音色がしない――。

「……いやです」

志野は、無意識に呟いていた。

「なんだと?」

一度溢れた感情は、けれどもう、とめどがなかった。

「厭なんです。もうこんなのは厭っ」

虚を突かれたように、馬乗りになっていた薫が動きを止める。

志野は、その胸板を、両手で思い切り突き飛ばした。


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