聞こえる、恋の唄
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第5章
「忍び寄る影」
………<4>………

櫻井屋敷が見えてくる頃には、周囲は暗灰色の夕闇に包まれていた。

冬の日の入りは早い。
志野はわずかに足を速めた。

夕食の支度に間に合わなければ、御園は許してくれても、里代がどれだけ怒るか判らない。

門扉をくぐり、庭を横切っていると、にぎやかな笑い声がどこかから聞こえてきた。

広い庭の奥、例の離れが一際明るく輝いている。
それに反して、母屋は暗く静まり返り、全く人の気配がない。

「……?」

不審に思いながら勝手口を開けると、待ち構えたように里代の巨体が飛び出してきた。

てっきり怒られるとばかり思った志野の前で、しかし里代は拍子抜けしたような顔になる。

「なんだ、志野なの……」

顔色が悪かった。
いつも神経質なくらいに髪をきっちり整えている女が、うなじに幾筋も髪の束を落としている。

「なにか、ございましたか」

気ぜわしく靴を脱ぎながら志野は訊いた。

夕飯時だというのに、屋敷は葬儀の時のように静まりかえっている。
離れから、時折馬鹿げた笑い声が響くものの、聞こえてくるのはそれだけだ。

「それがわかりゃ、こんなに慌てて飛び出して来たりしないわよ」

里代はどこか投げやりな口調で毒づいた。

「昼過ぎに電話があって、奥様と雅流様が血相変えて飛び出していかれたのよ。それきりお帰りにならないし、ご連絡も下さらないし」

「電話って、どこからですか」

「知らないわよ、雅流様が出られたんだから」

おかげで、誰も夕飯が食べられないのよ、あんたはいいわよね、のんびり浅草見物ですって、いいご身分よね。

里代の鬱々とした愚痴を耳にしながら、志野は漠然と感じていた不安がふいに現実になったような、そんな暗い予感めいたものを感じていた。

「離れには、……薫様ですか」

 声をひそめ、志野は訊いた。

「そう、結婚のお祝いで、ご学友が集まってらっしゃるのよ。夕方からずうっとあの騒ぎ。ああ、そうだ」

里代は、小さな目に露骨な侮蔑を浮かべ、志野を見下ろした。

「薫様が、あんたが戻ってきたら、離れに来るようにって言ってらしたわ。余興に一曲弾いて欲しいんですって。まるで芸者と同じね、あんたって」


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