■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第5章 「忍び寄る影」 |
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十の年に母が死に、女術(ぜげん)に売られるところを拾われてから、ずっと志野は御園の傍で仕えてきた。 志野にとって御園とは、主人であり師であり、そしてひそかに母とも慕う人だった。 結核で死んだ志野の母が、御園に三味線を習っていたと知ったのは、大分後になってからだ。 「本当に筋のよい方でしたよ。本格にされていたら、一派を興せていたかもしれませんねぇ。天才とは本当にいるのだと、私は妬ましく思ったものです」 その縁で、たったそれだけの縁で、御園という女は志野を女の牢獄からすくい上げてくれたのだ。 御園はすぐに志野に三味線を教え、志野は必死でそれに応えた。 稽古の間だけは、主従を忘れてぶつかりあった。 女主人に、志野がどれほど感謝し、恩に報いたいと思っているか――。 思いの深さは、他人にどう説明しても理解されるものではないだろう。 御園を悲しませずに済むのなら、薫や雅流に受けた仕打ちなど、実のところなんでもない。 どんなことでも我慢できる。 御園もまた、志野をひどく可愛がった。 表面は厳しい、他の女中たちとその扱いは変わらない。 けれど、肝心な所ではいつも志野を見守り、そしてひそかに頼りにされていることを、志野はしっかりと感じ取っていたのだった。 「今日は船弁慶にしましょうか、私が謡うから、それに合わせて弾いておくれ」 「はい」 雪の降りしきる夜半になって、二人きりの稽古が始まる。 「お前に、三味線で身を立てさせるのが、私の目標のようなものだったけれど」 めっきり増えた白髪が、気丈な女主人のここ数年の辛苦を語っている。 傾きかけた櫻井家を維持するため、外遊中の伯爵に代わり、彼女が被った苦労はなみなみならないものがある。 「こうやって、二人で稽古をしている時だけが、私にとっては、本当の安らぎだという気がするのですよ」 微かに息を吐き、伯爵夫人は寂しそうな声音になった。 「鞠子は先の奥様がお産みになられたお嬢様だし、薫も雅流も勝手ばかり。三人ともどこか冷たくて……、母と呼ばれても他人行儀な気がするのです」 親子仲がよくないことは、志野も漠然と察していた。 継子である鞠子はもちろん、雅流も御園を避けているし、薫にいたっては、露骨に嫌っている節さえある。 理由を、御園だけは察しているようだったが、同時に諦めているようでもある。 いずれにせよ、伯爵家にあって、御園がひどく孤独な存在だというのは、確かなことのようだった。 ほう、と溜息をつきながら御園は続けた。 「綾女さんが来て下さったら、私はどこかの田舎に居を構え、そこで三味線の教室を開こうと思うのですよ。お前、ついてきてくれますね」 志野は喜びを噛み締めて頷いた。 年が明ければ、伯爵様が戻ってくる。 春になれば、綾女様が嫁いでこられる。 初夏の頃には、雅流様は結婚し、この家を出て行かれる。 全てが上手く行くのだと――行って欲しいと、志野は心の底から願っていた。 この絵に描いたような幸せの裏に、澱のように潜む不安を、志野一人が知っていたからかもしれない。 |
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