聞こえる、恋の唄
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第四章
「雅流の秘事」
………<4>………

緋色の着物が、暗い木影から鮮やかな色彩をのぞかせている。

「こんなにお慕いしているのに……、あの日から、私の心はあなた一人のものなのに」

優しい、けれど、哀願するような切ない声。

声の主は予想どおり、綾女だった。

眼が慣れてしまえば、女の姿は鮮明に薄闇に浮き上がってくる。

牡丹模様の鮮やかな着物。
背中の半ばまで伸びた黒髪が、木漏れ日に輝いている。

華奢な綾女に、被さるようにして立っているのは、婚約者の薫ではなく――その弟の雅流だった。

白いシャツに黒のズボン。
いつもの彼の服装だが、背筋を伸ばし、凛として、まるで正装しているような折り目正しさがある。

「お願い……、一言でいいから、嘘でもいいから」

胸が痛くなるほど悲しげな声。

けれど雅流は何も言わない。
沈鬱な横顔を見せたまま、視線をわずかに下げている。

「あれが過ちだったなんて、私には信じられません。私……私」

綾女の声が、すすり泣きと共に崩れ、身体まで崩れ、男の胸に重なっていく。

「……綾女さん」

初めて雅流が呟いた。

その腕は女を支えようとさえせずに、力なく垂れたままだった。

「お願い」

綾女は顔を上げる。

志野には見えないが、多分、涙で泣きぬれている。

「もう一度私を抱いてください。他の方と結婚なんて、なさらないで」

「それはできない」

「……雅流様」

「それは、できない」

初めて聞くような真摯な、そして、苦しげな声だった。

綾女の手が、何度かもどかしく男の胸を叩く。

「家のためですか、お金のためですか、あなたは日頃、そんなもの莫迦にしていらっしゃったのに」

綾女とは、こうも激しい女性だったのだろうか――立ち退くことも進むこともできないまま、志野はただ息を詰めている。

雅流の腕が、躊躇したように女の肩を抱く。

まるで貴重な宝石を扱うように、そっと優しく抱きしめる。

「……許してください」

それ以上覗き見るのが苦しくて、志野は目を閉じ、顔を背けていた。

雅流と綾女。

志野は、深い衝撃と共に理解した。

彼らはすでに、男女の秘密を共有していたのだ。

雅流が時折見せる悲しみも苦衷も、今なら理解できるような気がした。
兄に対する、コンプレックスにも似た恐れの意味も。

志野は漠然と予感した。

多分――薫はこのことを知っている。

理由は判らない、けれど確かに知っているような、そんな気がした。


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