聞こえる、恋の唄
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第四章
「雅流の秘事」
………<3>………

どうしてそれを、ここ数日の自分は、綺麗に忘れていたのだろうか。

雅流は、菱田百貨店の令嬢と、先月見合いをしたばかりなのだ。

そして、どうして縁談話を思い出したくらいで、私は――、一瞬息が止まったかと思うほど動揺してしまったのだろうか。

「志野、車が来るまでに、庭先を清めといてちょうだい」

里代に命じられ、箒を持って庭に出ながら、やはり雅流のことを考えている自分に、志野はただ戸惑っていた。

兄とはまるで似ていない野性的な顔立ちをした雅流は、骨格に秀でた身体と、低くてよく通る声を持っている。

長唄を謡わせれば、その低音は綺麗に伸びる。

深みがあって――彼の奏でる音と雰囲気がよく似ている。
上手くはないのに、不思議と人を引きつける何かを持っている。

(莫迦だわ、私)

志野は、愚かしい思考を、自ら首を振って遮断した。

だからどうだというのだろう。

雅流の本性もまた、血をわけた兄と同じなのだ。

放蕩で冷酷で、そして卑怯。

二人は、離れでやっているようなことを、志野以外の女にも繰り返しているに違いない。

忘れてはならない――志野は自分に言い聞かせる。

雅流もまた、兄と同じ人種なのだ。

少なくとも平気で、女性の心を踏みにじるようなことができる男なのだ。

集めた落ち葉をゴミ袋につめる。

肩に妙な力が入ったまま、暗く翳る裏庭を早足で突っ切る。

焼却炉の手前、わずか数メートルの所まで来て、目指す場所に先客がいることに、志野はようやく気がついた。

(え……)

囁くような声音が聞こえる。
人影は男女のようである。

いけない、と即座に思ったが、すでに、進みことも引き返すこともできない距離である。

志野は息を殺して、身をすくませた。

二つの人影は、焼却炉脇の大きな木陰で、いかにも隠れるようにして寄り添っている。

「お願い、私を好きだとおっしゃって」

鈴を振ったような、軽やかで優しい声がした。

志野は息を引いていた。

薫の婚約者である男爵令嬢――綺堂綾女の声である。


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