聞こえる、恋の唄
■■
第三章
「志野と雅流」
………<6>………

ボタンを手にしたまま、雅流はすっくと立ち上がった。

「あ、あの」

声を掛ける間もなく、大きな背中が裏口のほうに歩み去っていく。

「待ってろ」

(え……?)

木戸が閉まる刹那、確かにそんな声が聞こえた気がした。

どうしよう。

胸元を抑えたまま、志野は困惑して室内を見回す。

彼が戻るまでここにいてもいいのだろうか。

それとも、聞こえたと思ったのは、ただの空耳だったのだろうか。

迷いながらも、志野はひとまず姿勢を正す。

雅流の意図がなんであろうと、瓦斯ストーブも明りもついたままの部屋を、無断で出て行くことだけはではきない。

しばらく所在なく待っていて――けれど、そう時間も立たないうちに、静かな足音が聞こえてきた。

木戸が開く。

無言で入って来た雅流が膝に投げてくれたものを見て、志野は思わず、目の前の男を見上げていた。

雅流は何も言わず、再び三味線を手にして、元の場所に腰を下ろす。

「……あり、がとうございました」

志野は驚きを隠せないままに礼を言い、雅流が持ってきてくれた裁縫箱の蓋を開けた。

少し躊躇したものの、ボタンのとれたブラウスを脱ぐ。

代わりに、肩に学生服を羽織った。
それもまた、雅流が投げてくれたものだった。

「お前は莫迦だな」

呟くような声がした。
 
針に糸を通しかけていた志野は、驚いて手を止めている。

「俺たちはお前を、商売女同然に扱ったんだ。それなのに、ありがとうもないだろう」

見上げた雅流の横顔は、電灯の影になっている。

「金ならやるから、こんな家とっとと出て行けよ。それとも、兄貴の子どもでも作って、跡を取らせるつもりなのか」

これほど長く、雅流が何かを喋ることは珍しい。

志野は無言で、男の暗い横顔を見つめていた。

「お袋に言えばいい」

感情のこもらない声で、雅流は続けた。

「お袋は、まずお前の言うことを信じるよ。兄貴を叱ることもない。お前はお袋から金をもらって、好きなように生きればいいんだ」

「おそれながら」

志野は両手を畳につき、雅流の話を遮った。

「奥様に申し上げるくらいでしたら、その時は私、お暇をいただく所存です」

視線を下げたまま、強い覚悟をこめて志野は続けた。

「奥様を悲しませることだけは絶対に致しません。ですから奥様には、口が裂けても言ったりなぞいたしません」

雅流から返ってくる言葉はない。

「……私は、もし奥様にお救いいただけませんでしたら」

抑えていた感情がこみあげ、志野はぐっと喉を鳴らした。

「正真正銘身を売るしか、生きる術を持たない女でございました。そう思えば、これくらいのこと何でもないことでございます」

「そういうのを莫迦というんだ」

吐き棄てるような声だった。

志野は顔を上げている。

「御託はいい、要するにお前は、兄貴を好きになったんだ」



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