聞こえる、恋の唄
■■
第三章
「志野と雅流」
………<5>………

「……あの」

二人きりになるのは、初めてのことだった。

志野は、多少の緊張を抱きながら、黙して座る男を振り返った。

薫が志野を呼び出す時、雅流が同席しなかった日は一度もない。

むろん手を出すようなことはなかったが、隣室で稽古の真似ごとをしている以上、雅流が性質の悪い共犯者であることは間違いない。

異常な性癖が、兄のものなのか弟のものなのか、言われるままに従う志野には判らない。

が、雅流が、時折、心の底から見下げ果てたような冷たい目で、自分を見ていることだけは察している。

「お暇いたしましても、よろしいでしょうか」

あえて平静を装い、志野は訊いた。

雅流の前で以前と変わらぬ毅然さを保つことが、今の志野には精一杯の強がりだった。

情事の最中、隣室で三味線を引き続ける男の内心は測るべきもないが、雅流が、兄の婚約者に鬱屈した何かを抱き、志野に対して、ある種の批判めいたものを感じているのは確かな気がする。

「いちいち訊くな」

雅流は弦を弾きながら、抑揚のない声で呟いた。

「俺が、お前に用があるとでも思うのか」

薫もそうなら、今夜の雅流も、いつもとどこか違って見えた。

「……失礼します」

わずかに躊躇して、志野は立ち上がった。

もしかすると、何かを話してくれるかもしれないと、予感のように思ってしまったのが不思議だった。

雨垂れのような弦の音を聞きながら、ふと耳が熱くなるのを志野は感じた。

私は何かを期待していたのだろうか。

多分、していたのだろう。

蔑みでもあざけりでも、なんでもよかった。無言で見つめられるよりは、何かの言葉が欲しかったのだ。

でも、聞いたところで、それが何になるというのだろう――。

破れた胸元を隠しながら、志野は落ちた三味線を拾い上げる。

ぱらっと音がして、かろうじて引っかかっていたボタンが畳に零れ落ちた。

慌てて手を延ばす。

しかし、小さなプラスチックの欠片は、あえなく指をすり抜ける。

ぶざまにかがみこみ、志野は膝で行方を追った。

無くしてはいけない。
物資に乏しい時代、支給された服に替えはない。

ボタンは転々と転がって、そのまま、雅流の足元にたどり着く。

三味線の手を止め、無言でそれを拾い上げた雅流は、初めて志野の顔を正面から見下ろした。

志野は一瞬息を引き、そのままの姿勢で動けなくなっていた。

時々――本当に時々だけど、雅流の眼差しに、深い悲しみにも似た、底しれぬ孤独を感じてしまうことがある。

それは、まるで残り香のように儚く、正体を掴もうとした途端に消えてしまうのだけど。


>next >back >index
HOME