■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第三章 「志野と雅流」 |
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「……あの」 二人きりになるのは、初めてのことだった。 志野は、多少の緊張を抱きながら、黙して座る男を振り返った。 薫が志野を呼び出す時、雅流が同席しなかった日は一度もない。 むろん手を出すようなことはなかったが、隣室で稽古の真似ごとをしている以上、雅流が性質の悪い共犯者であることは間違いない。 異常な性癖が、兄のものなのか弟のものなのか、言われるままに従う志野には判らない。 が、雅流が、時折、心の底から見下げ果てたような冷たい目で、自分を見ていることだけは察している。 「お暇いたしましても、よろしいでしょうか」 あえて平静を装い、志野は訊いた。 雅流の前で以前と変わらぬ毅然さを保つことが、今の志野には精一杯の強がりだった。 情事の最中、隣室で三味線を引き続ける男の内心は測るべきもないが、雅流が、兄の婚約者に鬱屈した何かを抱き、志野に対して、ある種の批判めいたものを感じているのは確かな気がする。 「いちいち訊くな」 雅流は弦を弾きながら、抑揚のない声で呟いた。 「俺が、お前に用があるとでも思うのか」 薫もそうなら、今夜の雅流も、いつもとどこか違って見えた。 「……失礼します」 わずかに躊躇して、志野は立ち上がった。 もしかすると、何かを話してくれるかもしれないと、予感のように思ってしまったのが不思議だった。 雨垂れのような弦の音を聞きながら、ふと耳が熱くなるのを志野は感じた。 私は何かを期待していたのだろうか。 多分、していたのだろう。 蔑みでもあざけりでも、なんでもよかった。無言で見つめられるよりは、何かの言葉が欲しかったのだ。 でも、聞いたところで、それが何になるというのだろう――。 破れた胸元を隠しながら、志野は落ちた三味線を拾い上げる。 ぱらっと音がして、かろうじて引っかかっていたボタンが畳に零れ落ちた。 慌てて手を延ばす。 しかし、小さなプラスチックの欠片は、あえなく指をすり抜ける。 ぶざまにかがみこみ、志野は膝で行方を追った。 無くしてはいけない。 物資に乏しい時代、支給された服に替えはない。 ボタンは転々と転がって、そのまま、雅流の足元にたどり着く。 三味線の手を止め、無言でそれを拾い上げた雅流は、初めて志野の顔を正面から見下ろした。 志野は一瞬息を引き、そのままの姿勢で動けなくなっていた。 時々――本当に時々だけど、雅流の眼差しに、深い悲しみにも似た、底しれぬ孤独を感じてしまうことがある。 それは、まるで残り香のように儚く、正体を掴もうとした途端に消えてしまうのだけど。 |
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