聞こえる、恋の唄
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第三章
「志野と雅流」
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「俺も親父みたいに、国外に出て行きたいよ。自由にものも言えず、好きなものも買えず、挙句、親父のせいで、この俺までアカ扱いだ。息苦しいことこの上ない」

薫も雅流も、大学では相当肩身の狭い思いをしているのだろう、と志野は思った。

屋敷の近所で、次第に住民達の目が白くなっていったように、櫻井家に物資を売らない店が出始めているように――特に二十歳過ぎて入営しない薫には、相当な非難の目が集まっているに違いない。

大本営発表によると大陸での戦は勝利続きで、戦況は好転しているはずだった。

なのに、世間は暗くなるばかりのように志野には思える。

「雅には、何言っても響かないか」

横顔を見せた薫が、ふっと疲れたような息を吐いた。

志野もつられて、閉じたままの襖に目を向けている。

そう言えば、先ほどから一方的に話しているのは薫ばかりで、雅流は一言も応じてはいない。

不意に、薫が立ち上がって、両手で襖を開けはなった。

ひどく苛立った性急さに、志野は驚いて顔を上げる。

「なんだ、寝てるのかと思ったよ」

雅流は、障子窓に背を預けたままで、片膝を抱き、身じろぎもせずに佇んでいた。

やや俯いた視線は、手元の三味線に向けられており、薫を見上げることもない。
というより、声さえ聞こえていないかのようである。

薫は、不思議に静かな眼差しで弟を見つめ、やがて首を振りながら視線を逸らした。

「雅、前から思ってたけど、やっぱりお前は異常だよ。頭のどこかがいかれてるとしか思えない」

雅流は答えず、やはり無言で、空の一点を見つめている。

薫は、呆れたように舌打ちした。

「戦争なんて、勝つにしろ負けるにしろ、とっとと終わっちまえばいいんだ。ばかばかしい」

怒ったように言うと、上着を掴んできびすを返す。

「俺は出かける。雅、志野はお前の好きにしろ」

薫が、その外見を裏切って、不誠実でだらしないことはよく判っていた。

それでも今夜の彼は、いつも以上に疲れて廃退的に見えた。

乱暴に襖が閉まる音がして、荒々しい足音が遠ざかる。

やがて静かになった室内に、途切れ途切れに爪弾(つまび)かれる、雅流の弦の音だけが響き始めた。


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