聞こえる、恋の唄
■■
第三章
「志野と雅流」
………<3>………

どれだけの時間が経過したのだろう。

最初と少しも変わらない三味線の調べが、襖の向こうから響いている。

『時雨西行』

(……随分、お上手になられた。でも、二上がりで調子を変える個所に、どうしても一点、直りきらない悪癖がある)

うつろな目で衣服に手を伸ばしながら、志野はそんなことを考えている。

「雅、もう終わったぜ」

身体を離した薫が面倒そうに言う。

返事の代わりに、激しい旋律が返ってきた。

ふん、と薫は鼻を鳴らした。

「おもしろくないな。いつまで真面目に弾いてるんだよ。お前、三味線なんて、端から莫迦にしていたくせに」

部屋はむせるほど暖かかった。

畳が抜かれた土間では、瓦斯ストーブがたかれている。

急いで衣服を身につけていた志野は、途中で驚いて手を止めていた。

ブラウスの襟元が破れている。

どうしよう、いつだろう、気がつかなかった。

薫が必要以上に乱暴だったから、怯えて抵抗したのがいけなかったのかもしれない。

破れた衣服を合わせながら、志野は内心途方に暮れる。

戦時下の今、衣料は全て貴重品である。
目ざとい里代は、ボタンが一つ取れただけでもすぐに気づいて小言を言う。

この衣服では、女中部屋に戻れない。

皆が寝静まるまで、どこかで時間を潰し、破れた箇所を繕うしかない。

幸いなことに、今夜、御園は遅くまで戻らないはずだった。

出稽古の日は、家元と連れ立って舞台か歌舞伎を見に行くからだ。

「なんだか面白くないな。食べ物は貧相になるし、着る服も選べないし、つまらない時代になったもんだ」

ぼやくように言うと、薫は髪をかきあげながら肩を鳴らした。

普段は輝くばかりの美貌の男も、淫蕩な情事の後は、ただの粗野な男に成り下がる。

「家元にでもなれば、徴兵されなくて済むと思ったけど、余計な心配だったかな。華族ってのは、こういう時便利だよな、雅」

さばさばした、どこか投げやりな声で薫は続ける。

時間を少しでも稼ぎたい志野は、乱れた髪を直しながら、聞くともなく二人の会話を聞き続ける。

この戦時下にあって、華族が特別扱いされているかどうかは知る由もないが、政府に顔が利く櫻井伯爵が、なんらかの手段で息子たちの招集を免れさせているのは、志野の目にも確かなことのように思えた。

伯爵家が、おおっぴらではないものの、共産主義のスパイと、件疑をかけられているのも事実である。

櫻井伯爵は、大陸や欧州相手に貿易をして財をなした人物で、海外事情に詳しいせいか、当初からこの戦争を快く思っていなかったようだ。

ことあるごとに軍部を批判続けていた伯爵は、二年前、軍の監視を逃れるようにドイツに留学し、以来、一度も日本に帰ってこない。



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