■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第三章 「志野と雅流」 |
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※ 離れの稽古部屋に、志野が初めて呼ばれたのは、今から半年前のことだった。 やはりそれは、家元の出稽古の日の夜である。 薫と雅流、二人の前に座らされ、志野はただ、何が始まるか判らない不安に怯えていた。 「俺と雅に、手本を見せてくれないか」 三味線を手に正座したままの薫は、どこか皮肉な口調で切り出した。 「今日も、黒川のお爺様が言われただろう。三味線のことなら志野を見てそれに習えと。だからお前を呼んだんだ。な、雅」 彼は二つ年下の弟のことを、身内の中では雅と呼ぶのが常だった。 「お手本……でございますか」 志野は戸惑った。 実のところ、稽古部屋に呼び出されたことさえも、志野には大きな驚きだった。 そもそも、明らかに見下した眼で志野を見る薫の口から、「手本」などという言葉が出ること自体信じられない。 嫌な予感がした。 「お許しください」 志野は三味線を膝に抱いたまま、両手をついて頭を畳に押しあてた。 「そのような僭越(せんえつ)な真似はいたしかねます。私は」 「弾けよ」 唐突に口を挟んだのは、最初から不機嫌そうに壁によりかかっていた雅流だった。 「手本だ、わずかな調子も違えたら許さない」 (雅流様……) 志野は、震えながら顔を上げる。 低く押し殺された雅流の声に、いつにない畏怖を感じる。怒りを感じる。 浅黒い肌に漆黒の髪。 その中で、眼の白い部分だけが妙に強調され、銀鱗のように輝いて見える。 家では全くと言っていいほど口を聞かない雅流に、直接話し掛けられたのも、随分久しぶりなような気がした。 「さっさと弾けよ、志野」 薫が腕を組み、うっすらと笑った。 「もったいぶるなよ。たかだか下女風情が」 普段の優しげな顔とは、全く別人になっている。 薫の本性が、ただ優しいだけではないことは、察しているつもりだった。 けれど、こうして間近で向き合うと、一種異様な、不気味とも思える迫力がある。 志野は強い不安を感じながらも、持ち前の気丈さでいつもの自分を取り戻した。 「弾かせていただきます」 用意してきた三味線の糸を合わせ、撥を手にする。 どこまで弾いたのか――記憶は今でも、定かではない。 母屋には志野の音色が、途中で雅流のものに変わったとしか思えなかったろう。 悲鳴さえ出せずに全てが終わった後、さげすんだ目でシャツを羽織りながら、薫は冷ややかに言い捨てた。 「お前の母親は、こうやって金を稼いでたんだよ。志野」 身体より心の痛みに震える志野に、薫は容赦なく追い討ちをかけた。 「お前はな、そんな薄汚い女の娘なんだ。なのに、えらそうに――俺たちと同レベルのつもりでいるのが、癪(しゃく)に触る」 志野は無言で首を振った。 同席していても、家元に稽古をつけてもらえるようになっても、櫻井家の家族と同じ場所にいるとは夢にも思ったことはなかった。 ただ、志野は三味線が好きだった。 弾く事が、稽古することが――御園に喜んでもらうことが、それが無心に好きだっただけだ。 涙を、必死に志野は堪えた。 大したことじゃない。泣くようなことじゃない。命を奪われることに比べたら。三味線を弾けなくなることに比べたら――。 |
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