■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第二章 「残酷な運命」 |
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恐ろしさと嫌悪で足がもつれる。 薫は、苛立ったように志野の腕を抱き支え、自分の方に引き寄せた。 「さっさと歩けよ、手をかけさせるな」 蒼白い照明の下、見下ろしているのは一匹の美獣だった。 おそらく、昼間祖父に叱責されたことが癇(かん)に障っているのだろう。 今日はいつにも増して不機嫌らしく、額に蒼白い筋が浮いている。 背を押されるように奥の部屋に連れて行かれ、畳の上に突き倒される。 咄嗟に抱いていた雅楽器を庇う。 うつぶせに倒れた志野の視界に、閉じられた襖の白さが飛び込んできた。 三味線の音が聞こえてくる。 襖一枚隔てた隣室では、すでに雅流が、三本の糸が奏でる世界に入り込んでいる。 志野の耳に聞こえる『時雨西行』には、一糸の乱れも迷いもない。 「なんだ、もっと嬉しそうな顔をしろよ。世が世なら、御渡りってやつなんだぜ、志野」 普段の優等生面からは想像できないほど、粗野で残酷な男。 それが櫻井家の長男の本性だった。 おそらく、子どもの頃から殿様として育てられた彼にとっては、下女に手をつけることなど罪の内に入らないのだろう。 むしろ志野にとっては名誉なことだと、半ば本気で信じ込んでいる節がある。 雅流は、隣室で情事が行われている間、心を乱すことなく延々と三味線を弾き続けている。 美しい三味線の音色が、いっそう志野の心を惨めにさせる。 人形のように抱かれるのは、もちろん辛い。 しかし、その光景を、まるで無関心に無視されていることのほうが、もっと残酷で、悲しいような気がする。 薫と同様、いや、ある意味薫以上に母親に甘やかされて育った末っ子の雅流には、志野の感情を想像することさえ出来ないのかもしれない。 今も雅流は、隣室で繰り広げられている情事が、あたかも別世界の出来事であるかのように――、一心不乱に三味線を奏で続けている。 「おい、何をぐずぐずしている」 今日はよほど苛立っているのか、薫はひどく乱暴だった。 ブラウスが破れそうになり、志野は慌てて身をよじる。 衣服に痕跡が残れば、他の女中たちの不審を買う。 曲が本調子から二上がりに変じる。 高鳴る調べが、悲しいほど美しく流れていく。 志野はようやく全身の力を抜くと、音の世界に自分の意識を滑らせていった。 |
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