聞こえる、恋の唄
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第18章
「聞こえる、恋の唄」
………<5>………

「昔の知り合いにもらった、お前の好きに料理してくれ」

三和土に立っていた雅流は、手にしていた紙袋を差し出した。

ずっしりと重い袋の中には、白菜や大根、長ネギなどが溢れている。

言葉をかける間もなかった。

雅流は悠然と靴を脱ぎ、志野の横をすり抜けて自室へと戻っていく。

(どうしたらいいのだろう……)

決心がつかないまま、志野は野生の匂いがする袋を抱き、台所に戻った。

とにかく、鞠子の家に電話しなければならない。

でも、この家で、雅流がいる時に口を開くことはできないから――。

台所であれこれ迷う内に、雅流の部屋から三味線の音色が聞こえてきた。

志野は手をとめていた。

それは何百回も繰り返し聞いた、時雨西行だった。

本調子、二上がり本調子――調子が変り、しっとりと、胸にしみいるように響き続ける。

遊女江口が自分の身の上を語る場面になり、志野は自分の目に、自然に涙が溢れるのを止める事ができなかった。

(――雅流様……)

これまで聞いたどんな演奏より、今日の雅流の弾く時雨西行は素晴らしかった。

耳から胸に、雨のように旋律がしみていく。

初めは静かに、囁くように優しく、それが緩急を交えて激しくなり、やがて気高く鳴り響く。

志野は目を閉じ、そっと音色に自分を重ねた。

愛しい人と心が溶けあい、魂ごとひとつになる――そんな感覚を、確かに感じる。

出て行こう。

志野は、ようやく迷いの縁から浮かび上がっていく自分を感じた。

出て行こう、明日――いえ、今夜にでも、この家を。

もういい、これでいい。
本当に、心からそう思えた。

この演奏を、この音を聞くことができただけで、何もかも報われた。

何もかも――愛しさも苦しさも。

深く蓄積された想いが、緩やかに解き放たれ、清らかな光となって浄化していく。

眼を閉じていても判る。
はっきりと頭に浮かぶ。

彼の撥が、指先が。
きれいな横顔が、凛とした背筋が、美しい眼差しが。

涙を拭い、志野は、彼への思いを胸の内で繰り返した。

決して、叶わない恋だけど。

明日には、別れる人だけど。

もう二度と、生涯会えない人だけど――。



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