聞こえる、恋の唄
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第18章
「聞こえる、恋の唄」
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とにかく、私は鞠子のところへ相談に行ってきます、もしかして、雅流が行っているかもしれませんから。

そう言い残し、御園が出て行ってから、どれだけの時間がすぎただろうか。

夕闇に包まれた座敷で、呆けたように座り続けていた志野は、それでも夕食の支度の時間がくると、機械的に立ち上がっていた。

御園の言葉を、志野は――何度も反芻し、その意味を考えていた。

雅流が自分のことを忘れられないという――本当だろうか……、一瞬揺らいだものの、妄想は、すぐに激しい感情で打ち消した。

有り得ない。

御園は知らないのだ。
自分が、いかにひどい言葉で、年下の男を傷つけてしまったか。
プライドを踏みにじってしまったか。

それに、もし、――有り得ないことだが、雅流がまだ――自分にいくばくかの感情を抱いてくれているとしても。

志野が、自らを名乗り出て、そして説得したとしても、自分の言葉が何の意味を持つのだろうか。

雅流が実際、どういう思いを抱いているのかは知りようがない。
しかし、いずれにしても、彼を再度傷つけ、怒らせるだけではないのだろうか。

名乗ろうとも、黙っていようとも――結婚が破談になろうとも――それでも。

彼の眼が開く時、自分はもう、その傍にはいられないのだから。

激しく胸が痛むのを感じながら、志野は自分の傷跡に手を当てた。

この顔を、そして貧相に痩せた身体を、変ってしまった自分を、彼にだけは見られたくない。

眼が開いた彼はどう思うだろう。
激しく失望し、それでも優しいあの人は、情けで傍においてくれるだろうか。

それだけは……できない。

そんな負担にはなりたくない。

「…………」

志野は目を閉じた。
長い間閉じ続けていた。

いつの間にか日は暮れ、畳に伸びた志野の影も、闇に紛れて消えていく。

ようやく心が、一つの道を探り当てた時だった。

「ただいま」という声が玄関から聞こえた。

まるで普段どおりの、雅流の声。

一時、躊躇したものの、志野はすぐに立ち上がり、玄関に向かって小走りに駆けた。




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