聞こえる、恋の唄
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第18章
「聞こえる、恋の唄」
………<3>………

そんな、莫迦な。

志野は、声を立てずに驚愕していた。

「今日も病院へ行く途中、あの子はそう言って車を降りてしまったのです。目も見えないのに、……一人で、いったい何処へ行ったのやら」

「雅流様は大丈夫です。しっかりしておいでですから」

動揺したまま、それだけしか言えなかった。

今のままで……いい?

いくら三味線のためだと言っても――信じられない、その考えは理解できない。

いったい彼のために、この老いた母親が、どれだけの苦労を重ねてきたのか――雅流様は本当に理解しているのだろうか。

そして、指を何よりも大切にしなければならない三味線奏者として、やはり視力はないよりあった方がいい。

先日の湯沸しの件といい、この先、何が起こるか判らないのに――。

「志野……」

肩を強く抱かれ、志野ははっとして我に返った。

「お前しか、もう私には、お前しか頼る者はいないのです。本当のことをいいます。雅流の縁談は、とうに破談になっているのです。いったん自分で了承したものを、あの子は、四方八方に土下座して自ら断りに回ったのですよ」

目の前が暗く陰るのを志野は感じた。

「どうして……」

どうして、そんな。

「……私は愚かでした。雅流の時雨西行なら……何年も前に聴いていたのに」

囁くように言い、御園は老いた目から涙を零した。

「お前は気づかなかったのですか、雅流の弾き方に独特の悪癖があることに。何度も厳しく言って叱ったものを、雅流は何故直そうともしないのでしょう。あれはお前の弾き方なのです。いえ、今のお前には決して弾けない、昔のお前の弾き方なのです」

志野はよろめき、背中を壁に当てていた。

雅流の時雨西行に、妙な癖があることは六年前から知っていた。

ただ、それが、自分の弾き方だったとは、夢にも思っていなかった。

「あの夜……、私は、ようやく、判ったのですよ」

涙で潤んだ目で、御園は志野の両手を握り締めた。

「あの子の情は、私が思うより遥かに深い所にあったのです。雅流はね、志野、今でもお前のことが忘れられないのです」



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