■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第17章 「触れあう鼓動」 |
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その日以来――はっきりと覚悟を決めてから、ようやく志野の日々はいつもどおりの処に落ち着いた。 稽古に明け暮れる雅流は、あの夜のことなどまるで気に掛けていないようだったし、御園は、別人のように機嫌がよくなった。 「今日は気分がいいのよ、私も何かこしらえましょうかね」 と、台所に立ち、包丁を取る事もしばしばだった。 そんな日は、二人は本当の母子のように、屈託のない時間を楽しんだ。 「私はねぇ、志野」 今日も御園は、台所で機嫌よく志野に語りかけた。 「今、とても幸せなのですよ。あと何年かして旦那様のところへ行く段になって、私の人生というものを振り返った時」 きっと、今ほど幸せな時期はないと、そんなことを思ったりするのですよ。 御園の言葉を聞きながら、志野もまた同じことを考えていた。 雅流の奏でる三味線の音が、台所に立つ二人にところにまで響いてくる。 (時雨西行……) 志野はふと、野菜を洗う手を止めていた。 「おや、時雨西行とは懐かしい」 御園もまた、包丁を持つ手を止めている。 「目が見えなくなった雅流に、最初に稽古をつけてやった曲ですよ。あれから弾くこともなくなったのに」 「お若い頃にも、よく練習なさっていた曲ですね」 志野は頷いて目を閉じた。 生涯忘れることはない曲だった。 耐え難い――人生の地獄としか思えない状況で、何度も何度も繰り返し聞いた曲だった。 一時は、思い出すのも辛くなる曲だった。 なのに昔も、そして今も、不思議と悲しみは感じない。 ただ、安らいだ幸福だけが緩やかに志野を包みこむ。 「お前が最初に弾いたのも、そういえば時雨西行でしたね」 「そうだったでしょうか」 少し驚いて志野は眉をあげていた。 御園はおかしげにくすくすと笑う。 「私が教えたのではないのですよ。お前が母親の曲を、見よう見まねで弾いていたのです。覚えてはいないでしょうねぇ……お芸者風とでもいうのかしら、随分な悪癖があって、改めて教える際に、ひどく苦労しましたから」 まるで記憶にない話だった。 けれど昔から時雨西行には、ふと心惹かれる何かを感じていたことだけは覚えていた。 「今にして思えば、鞠子や薫が、随分お前に嫌がらせをしていましたねぇ。お前はいつも一人で、時雨西行を弾いていたのですよ」 では私はいつも。 ふと志野は思っていた。 いつもこの曲に、助けられていたのだろうか……。 美しい旋律は、変調を向かえて二上がりとなり、遊女江口が身上を語る場面になる。 見事な演奏だと志野は思った。 魂が、気迫が、離れている志野にも震えるほどに伝わってくる。 「今日は、いい音を出されていますね」 志野は嬉しくなって、隣の御園を振り返る。 御園は何故か放心したような目をしていたが、志野の声に、我に返ったように顔をあげた。 「奥様?」 「いえ……少し眩暈がしたのかしらね」 顔色が蒼白に変じている。 志野は慌てて痩せた肩を抱き支えた。 「お休みになってくださいませ。後は私がしますから」 「悪いわねぇ」 やはり顔色の悪いままの御園だったが、床を用意する頃には落ち着いて、着替えも自分で済ませて床についた。 あらためて台所に立つ志野の耳に、再び時雨西行の音色が聞こえてくる。 穏やかで幸福な気持ちに包まれたまま、志野は雅流の好物を作り始めた。 (今が、一番いい時かもしれない……) そして目を閉じ、この宝物のような時間が過ぎていく事を惜しみながら、残された日々を大切にしたいと心から思った。 |
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