聞こえる、恋の唄
■■
第17章
「触れあう鼓動」
………<1>………

眠りに落ちかけていた志野は、かすかな物音で目を覚ました。

締め切った襖を、外から叩く音がする。

(奥様……?)

志野は慌てて跳ね起きた。

「しず、俺だ」

雅流の声だった。

そうだ、御園は今夜、鞠子の家に行くといったきり、まだ戻って来ないのだ。

夜半すぎに、今夜は泊まりになりそうだから先に寝ておいで、と電話があったばかりだった。

再度、襖が叩かれる。

志野は、布団の上に半身を起こしたまま、びくりと身体を震わせた。

夜は、しんと静まり返っている。

一度寝所に入った雅流が、途中で起き出してくることなど初めてだ。

志野の部屋に、自ら呼びに来るのも初めてである。

いったいどういった用向きだろう。
こんな時間から、よもや三味線の稽古だろうか。

困惑したまま、手を叩くことさえ忘れていると、少し躊躇したような低い声がした。

「遅くにすまない、悪いが、茶を一杯煎れてもらえないか」

そんなことか……。

ほっとして、ようやく冷静になって、志野は一回手を叩いた。
無駄に緊張した自分が、愚かしくもあり、おかしくもある。

夜着の上に上掛けを羽織り、急いで暗い廊下に出る。

雅流の姿はもうなかった。
代わりに、台所に明りがついている。

志野が出て行くと、所在なさげに立っていた雅流は、ようやく安堵したような表情になる。
そして、慣れた足で座敷にあがり、卓袱台の前に腰を下ろした。

「すまない、こんな時間に」

志野は微笑し、軽く二回手を叩いた。いいえ。

台所は、座敷より一段低い土間にある。
湯沸しを火にかけながら、志野は、雅流がいつになく憔悴しているのを感じていた。

――どうなさったのだろう……。

昨夜の鞠子とのいさかいを、まだ気にしているのだろうか。それとも三味線のことだろうか。

卓に肘をついた雅流は、右手指を唇にあて、ずっと無言のままでいる。

柱時計が十二時を告げた。
こんな時間までいったい何をなさっていたのだろう。
三味線の音は聞こえなかったけれど――志野は、不思議に思いながら、戸棚を開けて茶葉を取り出した。

湯が沸き、茶の匂いが室内にたちこめるまで、志野が口を聞けないのはもちろんのこと、雅流もまた、一言も喋ろうとはしなかった。

初めてこの沈黙を気詰まりに感じながら、志野は、少し冷ました茶を、彼の座する卓にそっと置く。

そして、手を一度叩いた。

「ありがとう」

そう言ったきり、雅流は再び口を噤む。

雅流が――何かを迷い、沈思しているのは明らかだった。

それが、彼自身の結婚のことなのか、三味線に係わる事なのか、志野には測るよしもない。

時計の秒針の音だけが響いている。

雅流の手の中で、茶は、多分、すっかり冷めてしまっている。

屋根を叩く雨音がした。
志野は立ち上って土間に下りると、まだ熱い湯が残る湯沸かしを持ち上げた。桶に移し、冷まして飲み水にするつもりだった。

雨音が少し強くなる。

ふいに、雅流の声がした。

「お前は、結婚しないのか」


>next >back >index
HOME