聞こえる、恋の唄
■■
第16章
「雅流の婚約」
………<6>………

「許されるものなら」

視線を下げながら、志野は呟いた。

「いつか、私の口から、あの折の無礼を、雅流様に謝りたいと思っているくらいなのです」

雅流の口から「関係のない人ですから」ときっぱりと言われた刹那、志野は彼が負った傷の深さに、自身の胸が裂かれるほどの強い痛みを感じていた。

もういい。

最後の日、懸命に感情を自制していた雅流の顔が、まだ志野には忘れられない。

もういい、俺が莫迦だった、俺がうぬぼれていた――。

なのに彼は、怒るでもなく取り乱すでもなく、「あの人のことは、もう二度と口にしないでください」とだけ言ったのだ。

それは志野自身が望み、別れ際に雅流に約束させたことでもあった。

雅流様は、まだあの日の約束を覚えている。

それだけで志野は、寂しい中にも胸が満たされるような、不思議な幸福を感じるのだった。

「……奥様」

志野は居住まいを正した。

「色々考えましたが、やはり私は、雅流様がご結婚される折には、こちらを辞去しようと思っております」

覚悟していたのか、御園の目に驚きも失望もなかった。

ただ、悲しげな目でため息をついただけだった。

「私は、江見さんとは上手くやってはゆけませんよ」

「まだお若いからはっきりとものを申されますけど、お優しい方だと思います。ですから、雅流様も、ご結婚を決められたのではないですか」

御園とてこの婚約が嬉しくないはずはない。

志野には判っていた。
自分の存在が――また奥様を苦しめているのだと。

母子のことだから、わだかまりは自然に解けるだろう。
逆に自分がいつまでも御園の傍にいれば、その機会さえ奪うことになるのではないか。

「私と雅流がこの家を出て行ったら、お前、ここで師匠として、弟子を取るつもりはありませんかえ」

御園はそんなことまで言ってくれた。

涙が出るほど嬉しかったが、その申し出を受けるつもりは最初からなかった。

何年も他人を欺けるものではない。
ここに残れば、己が欺かれていたことを、やがて雅流も知ることになるだろう。

何よりも、志野は自分の顔を――以前とは変ってしまった容貌を、決して雅流には知られたくなかった。

例えそれが、憎しみに彩られた思い出であったとしても、彼の中にいる自分は、まだ若く綺麗な頃の自分であってほしい。

あさましいようだけれど、それが精一杯の女心だった。


>next >back >index
HOME